ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

「生きる」義務なのか、権利なのか。

こんにちは!

最近は、夏なのに寒くて、7月なのに長袖を着ていて、何だか不思議な気分ですね。

今年は「冷夏」になるそうです。張り切って買った夏のワンピースをどうしようか迷ってしまいます…笑

 

さて、夏休みが近くなりました。私にとっては数年ぶりの夏休みだし、少し心が締め付けられるような時期でもあります。

「9月1日」、若者の自殺の問題、毎年のように悩み、何かを発信したいと心が揺さぶられます。

 

今年は、ヒカリテラスでも、個人でも、チャレンジしていきたいなぁと思っているのですが…。

 

最近は「生きる」って義務なのか、それとも権利なのか、なんなんだろうって考えてるんです。

 

今日はそんなお話をここで書いていきたいなと思います。

 

「生命を大切に」ってどうして?

私は小心者の死に損ないなので、こうやって今も生きていているのですが、昔はGoogleとかTwitterとかで「死に方 簡単」「死にたい」「消えたい」って検索をかける時期もありました。匿名のサイトで「死にたいんです。」とかって投稿してみたりね。

 

そういう時って「生命を粗末にするな!」「生命は大切にしなきゃいけない!」とかって言葉がすごい勢いで入ってくるんですよ。

 

当時は、自身を真っ向否定されたような気がして、悲しかったり、苦しかったり、「何くそ!」と思ったりしてたんです。

 

でも今になって考えると、誰も「生命を大切にしなきゃいけない」理由は教えてくれなかったなって思い返しました。

親からもらった大切なものだから、とか。生命はひとつしかないから、とか。この世には生きたくても生きられない人がいるから、とか。答えになってない理由とか、感情論とか、ばっかりじゃないですか。

 

そもそもね、勝手にこの世に産み落とされて、勝手に生命をもらって、勝手に生きているだけ。じゃないですか。

お母さんのお腹の中にいる時の記憶が無いので、なんとも言えないのですが、生命が欲しいと思って、生きることを願って、この世に生まれて来たわけではないと思うんですよね。

 

なんか知らないけど、生まれて、生命が始まって。

気づいたら、「生きる」ことが素晴らしくて、「死ぬ」ことが良くないことみたいな価値観が蔓延していて。

気づいたら「生きる」ことが義務みたいになっていて。「死にたい」と思ったら、「生きる」義務を放棄するのか〜!?みたいな感じで社会から怒られて。

 

そんな社会で生きているけど、その社会の人たちは誰も「生命を大切にしなきゃいけない理由」は教えてくれないし、もしかしたら「生命を大切にしなきゃいけない理由」を知らないのかもしれない。

 

私たちはもしかしたら、「生命を持って生きる義務」を背負ってるわけじゃなくて、「生命を持って生きる権利」があるだけかもしれない。

 

と最近は思っていたりするわけです。

 

どうして「生きる」のか。

ちょうど1年前、虐待によって自殺した人について語ったことがあって。「その人は自殺を選んだことで、これ以上惨めな人生になることを食い止めたんだ。」って話をしたことを覚えてます。

 

その話を聞いてからというもの、「闇雲に死ぬのは良くない」ってメッセージを投げかけ続けるのはどうなんだろう、私たちが「生きる」ことは本当に義務化されているのだろうか、勝手に義務感に駆られているだけではないのか、って思うようになりました。

 

どうして生きなくてはいけないのか、って考えた時に、ちゃんと筋が通った理由が思い浮かばないんですよね。本当に個人的な話とか、感情論でしか、語れないんです。

 

きっと、義務的な意味で「生きなきゃいけない理由」や「生きる意味」は存在していなくて、あくまで自身で「生きる意味」を見出すものなんだろうなって。

そう思った時に、「生きる義務」は無くて、「生きる権利」を保有しているんだろうなって。

 

だったら、自殺について「自分で死ぬなんて何考えてるんだ」とか、「死ぬことなんて良くない」とかって言うのはお門違いじゃないのかなって。

 

それに「死ぬことは良くない」わけではないし。だって、今もたくさんの命が果てているわけで、私たちにもいずれ死はやってくるのでね。

 

自殺は悪いことではないのかもしれない。もしかしたらね。自分の人生をこれ以上惨めにしない為にも、自分自身の尊厳を守る為にも。

 

そんなことを思う中でも、自殺という選択は最後の最後にしてほしいって願いを込めて、今も自殺防止とか、若者の自殺問題について考えてたりします。

 

私自身が自殺できなくてよかったって思えてるし、自殺をしなかったからこそ、今、少しずつ幸せに生きることができているんだと思うので。

 

自分勝手だけど、私の価値観の押し売りだけど、自殺という選択肢もあるけど、できる限りなら一緒に生きて欲しいというか。せっかく、言葉を通じてとか、いろんな形で出逢えたのだから。

 

そんなことを考えた、1週間でした。

 

おやすみなさい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心が壊れていないことに乾杯しよう。

こんにちは!夏が近づいてまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

 

私は夏になると調子が悪くなりがちなので、ゆっくり心と会話しながら、一歩ずつ小さな幸せが重なっていくように計算しながら生きています。

本をいっぱい読んで、物思いに耽てみたり、言葉を紡いでみたり、美味しいものをたべたり、、、生きている感触と幸せだと感じる瞬間が重なるのがわかるので、こういう生き方もステキだなと思ったりしている今日この頃。

あと最近は、私が思っている以上に言葉や、日本語、文学が大好きで、考えていることが夢心地過ぎているので、政治学科向いてないんじゃねって思い始めています()

きっと哲学とか宗教とか向いてる!笑 これと言って宗教は信仰していないけど、神様とかは信じてるので!笑

 

そんなことはさておき、今日は心が壊れていないことはステキだなぁって話をしますね。

 

心が壊れていないこと。きっと当たり前じゃないよね。

最近は、昔ハマっていた曲にまたハマるのが好きで、洋楽を聞きます。歌詞がステキなのでYoutubeを載せますね。今日のBGM代わりにでもしてください。笑

 


Halestorm - Here's To Us [Official Video]

この曲にはまっていたのは、ちょうど心が壊れかかっていた時期。

Stuck it out this far together
Put our dreams through the shredder
Let’s toast cause things got better
and everything could change like that
And all these years go by so fast
But nothing lasts forever

ここまで一緒に頑張ってきたけど、夢はシュレッダーにかけて捨ててしまった。(なくなっちゃった。)

でも乾杯しよう。きっと良い風に変わっていくんだって。こんな風に全て変わっていくんだって。永遠に終わらないなんてことはないから。

という歌詞が好きで、サビで「私たちに、壊れていない心に乾杯」って歌うのが好きで。こうやって今思うと、言葉に救われて生きてきたんだなぁと感じました。

 

まぁ、そんな感じで。

 

皆さんは「心が壊れる」って経験をしたことはありますか?

人生経験が豊かな皆さんは一度や二度あるかもしれません。私も、万年ガラス細工のハートで生きているのであります。

 

何を持って、どういう定義で「心が壊れる」と言うのかは個人によって違うと思うのですが、私にとっては、大きな精神的アクシデントで思考ができなかったり、感情が湧き出てこないことを指しています。

挫折をしたり、生きている意味がわからなくなったり、人間性をどこかの誰かから踏みにじられたり、失恋したり…、きっと色んな事があるし、どんな心も全てが強くないから壊れることだってあるんだろうなって。

 

結構ね、生きるのしんどいなぁって思うんですよね。

誰かが放った心無い言葉を聞いてしまうと、誰かの蔑んだような冷たい視線を見てしまうと。

人ごみとか大学の空気に流れてくる感情とか、思っていることを感じたり、色んな場所で今の社会を横目で眺めていると。

どうやって、もらってしまった命をこの社会で消耗していったらいいのかわからなくなっちゃって。社会を斜に構えてみたくなっちゃいます。

「私たちは何をもって生きてるのか。」 - C - g.o.a.t

 

でもこれは、私が生きているから心がこうやって動いてるのだろうし、生きていく中での杞憂みたいなものなのかもしれないし、心が壊れていないって一番の証なんだろうって。

最近はそう思うようにしています。

 

心が色んな感情を持って揺らいでいることが、それが当たり前だと思わずに幸せだと思えることが、きっと生きてる証拠になるんだと信じていたいので。

 

当たり前でないことが、当たり前であることが幸せだと思いたくて。

心が壊れていないことは、当たり前のように思う人もいっぱいいると思います。

でもきっと、心が壊れるという経験をした人は、心が壊れていないことは当たり前ではない。だから心が壊れていない、至って当たり前で普通の日々を幸せに感じられるのではないかなって思うのですね。

 

頭の中で思考を巡らせること、誰かを想うこと、何かを見て感じること、何かを食べて味を感じること、感情が沸き立つこと、これらは当たり前のようにみえて、当たり前ではないこと。でも当たり前にできる今のこの瞬間は、きっと幸せなんだって私は思いたい。

 

私が思うことや感じていることを、そのまま心に取り留めておけることも、ブログや色んな媒体で発信し、色んな方と共有できることも、誰かから支配されずに自由な思考ができることも、

そんな当たり前にしているようなことも、明日明後日には誰かが権力を濫用したり、国が支配したりして、当たり前ではなくなってしまうかもしれない。

そんな大きなことは起きなくても、心が壊れて死にたいと思うかもしれないし、このブログを消してしまうかもしれない。

 

そう考えたら、今ここでパソコンの前で色んな思いと感情を持って、大好きな言葉で紡いでいることは幸せなんだって思うんですね。

 

心が壊れていない今日が何よりもステキで、言葉を紡いでいる今がとてもまばゆくて、当たり前でないことが当たり前にできている今が幸せで、生きているんだってね。

 

苦しいことも、悲しいことも、嫌なことも、心にはいっぱい感情として生まれるけど、生きている証なんだって。それすらも大事にしていきたくて。

きっと「生きている」という事象は、絶望でもあって希望でもあって、今ここにいる証の一瞬一瞬で、それを重ねていくことは奇跡なんだって。

 

当たり前でないかもしれないことが、当たり前にできる今が幸せで、心が壊れていない今が幸せで、そんな幸せにありがとうって。

 

今日はジンジャーエールで乾杯。ふふふ。

 

それでは、おやすみなさい。

 

 

上手に生きようと思ったり。

おはようございます!電車の中でポチポチ書いてます(ふふふ)

 

最近は、太宰治並の感情ジェットコースター気質が爆発してまして、毎日いろんな感情を行ったり来たりしてます。

この時期は気圧のせいか、感情の壁が薄くて大変です。笑

 

昨日は全然悲しくないけど、涙がポロポロしちゃってデトックスみたいな感じがしました()

 

まぁ、言っても理解されないんですけど。笑

 

今日はそんなこんなで「上手に生きたいなぁ」と思った話をば。

 

ひしひし感じる「生きづらさ」

私、傍から見たら、割と上手に生きてるというか、割と人生上手くいってるように見えてるんだろうなって思うのですが、そんな人から見たら何が?って思うかもなんですが、

 

最近、ひしひしと社会で生きてる中で「生きづらさ」を感じます。

 

ポツポツと体調が悪くなったり、他の人の感情を感じ取りやすくなったり、感受性が暴走し始めたり、

特にこれといって原因は見当たらないけど、心苦しい日々を送ってます。

 

何が「生きづらさ」を感じさせているんだろうって、欲張りなのかなって思っちゃったりして、色々と考えてしまう今日この頃です。

 

新しいコミュニティに属したというのもあるかもしれないなぁ。

人付き合いが増えたというのも可能性にあるし、単純に心が疲れているのかもしれない……。

 

元々、人付き合いが少なかったり、居心地良すぎるコミュニティに属していたので、ギャップが凄いのかもしれませんね。

 

色々考えてたんですけど、結局のところ、私は単純に生きるのが不器用すぎるという結論に至りました。

 

上手な生き方が何かは分からないけど、少なくともお世辞にも上手な生き方とは言えないので。きっとそうなんだと思うんですね。

 

自分が誘発した感情じゃなく、他人から触発された感情に一喜一憂してしまったり

本の主人公の感情に持ってかれて、憂鬱な感情で過ごしてしまったり

感情の切り替えがとてつもなくスローリーだったり

生きるのに無駄が多すぎるんだと思います。

 

こういうもの変なのがある、しかも生きていくのに邪魔になる、私自身も発見して理解するのにとてつもなく時間がかかったし、だからこそ、社会に受け入れられないのではって、理解されないのではって、怯えてるなぁって感じてます。

 

生きづらさは、社会に対する不安や怯え、恐怖心からはじまる。特に理解と共感が乏しいコミュニティになるほど。

 

そんな風に生きづらさについて考えてた時期もあったなぁとふと思い返したりしました。

 

上手に生きたいって思ってる。

辛いことに慣れる、苦しいことに慣れるって一番危険だと思ってます。

かく言う私も理解されないことに慣れてしまってる節はあって、信憑性の欠片もないんですけど。

 

深刻化したいじめとかと似たようなイメージで、いじめられることに慣れてしまうと、自分が悪いと卑下するようになったり、信じられないことや信用出来ないことが当たり前になるので、信じることが出来なくなったり。頼れなくなってしまうのと同じように危ない…気がする。

 

そう考えたら、私が生きている中で「生きづらさ」を感じていられるのは、正常に心が動いている証だからまだいいのかななんて思ったり。

 

楽観的に考えたらそうなんですけど、いつまでも「生きづらさ」を抱えたまま、生きて死んでくなんて真っ平御免だし、なんか早死しそう…()

 

なんとか「生きづらさ」を軽減しようと努力はしてみてはいて、

 

理解してもらえるようにまずは自己開示してみたり、

自分自身の「生きづらさ」が何なのか調べてみたり、

感情を自分のものと他人のものと区別が着くように香水を付けたり、イヤホンを付けたり、

 

やっぱり、周りと比べて、格段に生きるのが不器用だから、その分、工夫をして頑張らないとって思うわけです。

 

どうしたら、「生きづらさ」の苦しみから脱却出来るんだろうって日夜考えて、挑戦して、失敗しての繰り返しで。

 

最近は、とても空回りしている気分です。

 

この前、すごく困らせてしまって、心が痛くなりました。

あぁぁ、ごめんなさい。。。ってすごく思った。言わなきゃよかった、我慢すればよかった、ってすごく思った。

 

私のことなんか、押し殺しちゃえばよかったって、また仮面被っちゃえばよかったって、何度も何度も何度も思った。

 

どうして周りの人は、他人と柔軟に形を変えて、溶け込むように生きていけるのに、上手に生きているのに、

私はこんなに生きるのが下手くそなんだろうって。

 

すごく生きていることに自信が無くなりました。それでも、悔しいから生きるわけなんですが。

 

なんでこんなに上手に生きられないの!!!って自分に呆れて、泣きながら帰りました()

 

悔しくて、悲しくて、もういっそ虚しくて。

 

もっと私の心にフィットする生き方と、社会との向き合い方を研究しようと思いました。

 

不器用すぎる生き方だけど、いつかは上手に生きられるようになりたい。

 

今日は昨日より、明日は今日より、もっと上手に、もっと幸せに、生きたい。

 

毎日、「明日は上手に生きられますように。笑って生きられますように。」って願いながら、生き方を研究して生きています。

 

まだまだ長い道のりだけど、ちょっとずつ生きていくのが上手になればいいなぁ。

 

 

 

ステキな思い出は宝箱へ。

こんにちは!大学生活にも随分と慣れて、少し中だるみしている気がする今日この頃です。笑

 

穏やかで平和なお友達が周りにいるので、何だかいつも夢心地ですね。幸せだなぁ(ほくほく)。

 

今日はさくっと書きたいことを書きたくて、スマホから…。

 

そう今日は、地味に私の思い出が詰まった新宿タウンへちょっと遊びにいっていたのです。(授業終わりにね。)

私が密かに大天使さまと呼んでいるお友達を引っ掻き回して、

N高でお世話になった代ゼミタワーや代々木キャンパス、青春基地や夢キャンで走り回った思い出の高島屋タイムズスクエア近辺をブラブラしてきたわけです。

 

高校3年間いろんなことがあったなぁ、今でも鮮明に思い返せるのに思い出なのかぁ、と思うと何だか寂しい気持ちっていうか感慨深いですね。

 

毎日のように新宿に逃げ込むかのように通って、お金もないからずーっと歩き回って、マックに入ったり、デパートに入ってみたり、公園にも行ったりしたなぁ。

 

そんな何気ない光景とか街並みが、私にとってはステキな思い出だったんですね。

 

私は、高校以前のことがあまり上手に思い出せません。日記を辿ってみたり、トラウマのように思い浮かぶことを辿ってみたりでしか、思い出せなくてプツプツとしているんです。

たまにぶわっと思い返す時があって、その時はその思い返したものをブログなり記事なり日記なりにしたためて、できるだけ私が生きた証を残すようにしたりしています。

 

だから、高校3年間からの思い出が色濃く鮮明に思い出されるんだろうなって思うのですね。それに、この3年間の思い出は私にとって、人生で一番幸せで、甘美で、時にスパイシーなものだったのだと思うのです。

 

それで、今日、思い出の場所に足を運んでみて、

そんな大切な思い出たちを、いろんな形にして、何かしらの宝箱に大事に残せていたことに、気づいて感動しました。

 

ちゃんと生きている証が、いろんな場所に、いろんな形で散らばっていることが、とても嬉しかった。

 

なんで生きているんだろう、

なんで私がここに立っているんだろう、

なんて深すぎる問題なんか吹き飛ばしたくなるほど、上手には言葉にできないけど暖かい何かが心に染みていく気がしました。

 

ここに立っていた私は幸せだったし、今ここに立っている私も幸せ。

 

こうやって思い出は、振り返って、思い出す度に、深みが増して、きらめいて、よりステキな思い出になっていくんだって思いました。

 

ステキな思い出は宝箱にしまって、それで終わりにしない。

また、ふとした時に取り出して、生きてきた証を再確認してあげる。

 

そうやって思い出が増えて、積み重なって、私たち一人ひとりが生命を持って生きてきた証になるんだろうと思いました。

 

今日は何気ない小さなことに感動できるステキな一日だったなぁ。

何かある訳では無いけど、こんな何も無い一日がとても素晴らしく恋しく思えました。

 

こーゆー時に、本の一番後ろに書くようなスペシャルサンクスみたいなものが書けたらいいのにな。笑

 

今日書くとしたら、

私が高校生の時に出逢ってくれたステキな方々

親愛なる大学のお友達、大天使さま

ですかね❤

 

ステキな一日をありがとう。

 

それでは〜!!

 

 

好きな見た目で、好きな私で生きていく。

こんにちは!電車に揺られて家に帰還している最中のちはるです。

 

やっぱり言葉を紡ぐのは落ち着きますね、好きなことの一つだし、私として生きてる心地がちょっとします。

 

最近は、授業中に先生たちがふと口に出すステキな言葉をノートに書き留めるのが好きです。

実は記憶力がとても乏しく(単純記憶とか)、覚える歴史系の授業は得意ではないのですが、政治史の先生の言葉のセンスが好きで、授業に出るのが少しだけ楽しくなりました。

 

あとは私の関心分野にぴったりハマる憲法の先生の言葉(というよりお話)も好きで、割と頑張って通ってたりしてます。

 

今日は、この前、憲法の先生が話していた内容から私が思ったこととかウダウダ書いていけたらなぁと思います。

 

# KuToo 

この前、憲法の授業の冒頭に話題に上がったキーワードです。

ネットニュースを見たり、Twitterから流れてきたり、よく目にしていたワードだし、私の中でも興味や関心のある内容だったので、その話から感じたことや思ったことをノートに書き込んでいました。

 

# KuTooと言うのは、就活や仕事で、女性にヒールのある靴を強要するのはおかしい、みたいな話で。(多分そう)

そこから、その授業では、女性らしさや男性らしさってなんだろう、そのらしさを自らが表現したいと思って身にまとっているなら良いけど、強要されるのはきっと違うよね、みたいな話をしたんですね。(多分)

 

元々、ヒールのある靴、特にハイヒールは「女性が一人では生きられない、男性に守られなければ生きていけない生き物である」とイメージさせるように作られた靴だって話を聞いたことがありました。

だからハイヒールって歩きやすいように作られていないんですね。重心がつま先に集中するせいで足元が不安定ですし、履き続けていたら足の骨格が変形したりもします。

 

それで、ハイヒールを履くことを就活やフォーマルな場でのマナーにすることは、一人では生きていけないようなか弱い女性らしさや女性であることを強要していることに繋がるのでは?って思ったり思わなかったり。

 

そんなこと言っても、ハイヒールが好きな人や、女性らしいガーリーやフェミニンなファッションが好きな人は履き続けるんだろうなぁとも思うわけです。でもそれは全然OKですよね。?

 

この問題で、何が一番問題かって、女性が辛くて痛いハイヒールを履くことではなく、社会や見えないルールやマナーから、女性がハイヒールを履くことを強要されることや、女性がか弱い女性らしさを表現することを強要されることです。

 

だから、ハイヒールを履きたいなら履いたらいいし、それが男性でも女性でもいいし、履かなくてもいい。

ガーリーやフェミニン系のファッションだって、好きなら着たらいい、そのファッションが好きな理由が、女性らしさをアピールしたいでも、そうでなくても、好きなことに胸を張っていい。

 

でも女性は社会に女性らしさを表現したいから、オシャレをして、メイクをして、ハイヒールを履いているわけじゃないです。それが当たり前ではないです。

 

そして、女性だけじゃなく社会に生きる人全てが、好きな見た目で好きな私で生きていってもいいのです。

 

きっとこれを、人権で言うところの表現の自由と言うのですが(使ってみたがり)、好きなことを、自分自身で表現する自由だってあるんだって思います。

 

好きなものをまとえば、好きな私になれるはず

「何のために、好きなお洋服を着て、メイクをするの?」ってもし聞かれたら、私はきっとこう答えると思います。

「私を好きになって、自信を付けたいから。」

 

ファッションがマナーだとか、誰かのためとか、言う人もいるかもしれないけど。○○ウケとか雑誌とかで書かれるくらい、誰かのために感が強いけど。

 

私は、私が私自身を好きになるためにオシャレをするんだと思います。

 

メイクをすると「今日も頑張ろう!」って思えてメラメラ出来るし、可愛いお洋服を着れば、外に出るのが怖くても外に出られる。大きなチャンスに震えても好きなものを身にまとえば、チャンスを掴める?

それくらい、私に大きな影響を与えてくれるものだったりします。

 

好きなものを身にまとうことで、自ずとなりたい私や、好きな私へと変われるのです。

 

好きな私で生きることが、生きていく上で、安心になり、盾になり、力になるのです。

 

 

私は、高校生のときに女性向けのメディアでファッションやメイクなどの記事を書くライターをするくらい、可愛いものやオシャレというものが大好きでした。

 

いわゆる赤文字系と呼ばれるようなガーリーでフェミニンなファッションも、

柔らかいピンクブラウンのアイシャドウや、ぷるぷるなリップも大好きです。

 

初めて働いたお金で、コスメを買い、可愛いワンピースとバッグを買った時、胸がトキメキでいっぱいに溢れました。今でも忘れない。

 

そんなトキメキでいっぱいになったコスメでメイクをして、ワンピースとバッグを身にまとった時、好きな私で生きることに喜びを感じることが出来たんです。

 

好きな私で生きることは、私として生きるための勇気に繋がったのです。

それがいくら、外見から入っていたとしても。

 

好きなものが、可愛らしい女性らしさのある、一歩間違えたら「ぶりっ子」や「媚び売り」になりそうなものであっても。

 

それは誰かのためではなく、私のため。

 

私のためだけの社会で生き抜くための戦闘服だったわけです。

 

こんなにも自由にお洋服を身にまとえるのは、学生という身分だからなのかもしれませんが。

いつか、好きな見た目で、好きな私で生きてく、が増えていったらいいなぁなんて思いました。

 

女性らしさを強要されることなく、社会の当たり前を押し付けられることなく。

 

表現したい私を、好きなもので表現し、愛してあげられるようになったら、ステキですね。

 

それでは、おやすみなさい(​ *´꒳`*​)

 

 

 

 

 

 

 

甲冑じゃなくて、柔らかな布を。

こんにちは!ちはるです。

今日は毎月1回放送される、ヒカリテラスラジオ(風見しーちゃんのラジオ)の収録に行ってきました。

しーちゃんのラジオにお世話になってもうだいぶ時間が経ちますね。ヒカリテラスを立ち上げるってなったときにいただいた大きなチャンスの1つがこのラジオでした。

今も話すのは、本当に慣れないけど、届けたいこと、話したいことが、自分たちの声で発信できる媒体に出会えたことはとても大きいと思います。

 

今月は第3日曜の19時からなので、6月16日(日)19時からになります。しーちゃんのお誕生日、しーちゃんの歌についてお話ししたので、ぜひ聴いてみてくださいね♡

 

そして、この前の土日はとても色んな人と会って、色んなお話をしてきました。特に、社会にまつわる様々な問題や生きづらさに関してのお話。

 

生き方も考えの価値観も様々な人のお話を聞くのはとても楽しいし、勉強になります。

私は普段、自分だけの世界で思考し、価値観を深めていくことが多いので、その思考や価値観をアウトプットする機会に恵まれていませんでした。

 

それもあってか、とても新鮮に感じられたし、人と価値観や思考をシェアする、深い話やディスカッションみたいなものをすることがいかに大事がわかったような気がしました。

 

今日はそんな話をして感じた、人と人の間に生まれるコミュニケーションにおいての鎧や甲冑のお話。

 

大人になるにつれて、臆病になるものだ。

最近思うのは、歳を重ねれば重ねるほど、人間で臆病になっていくんじゃないかってこと。

 

私たちは、まっさらで何もついていない裸の状態で生まれてきました。それは肉体的な意味でも精神的な意味でも。

そこから、愛情や言語、社会のマナー、生き方など色んなところで色んなことを吸収し成長してきました。

もちろん、どんな人間も100%良い状態で成長するわけではありません。

そして、産まれて間もないまっさらな裸の状態から、強い個性を持って産まれてくる人もいて、その個性すら傷に見えたり、その個性によって傷つけられたりします。

 

吸収の段階で必要な愛情や教養を受けることができなかったり、その他の心無い何かによって傷つけられたり、心が殺されたり、、そうやって私たちは社会を鮮明に見えるくらいに成長するのと同時にまっさらな裸は薄汚れたり、傷ついたりしていくんだと思います。

 

だから、私たちはそんな薄汚れて、傷ついた裸の自分自身を醜く感じるし、恐怖すら覚える。

 

そんな姿を見せることに怯えて、私たちは大人になっていくにつれて、鎧や甲冑を着続けていくんじゃないかって。

 

薄汚れて、傷だらけの自分を、きっと周りは愛してくれない。

そして、きっと周りや、社会をどれだけ探しても、存在を受け入れ、存在を認めてくれる居場所はないんだ。って。

 

今の人間関係はどこか希薄です。

それはきっと、傷つけられる怖さに怯え続けて、鎧や甲冑を着ていても、裸でぶつかり合わなくても、存在を認めてくれない関係性でも、どことなく生きていけるからです。

 

誰とでも繋がれるようになった反面、気軽に疎遠になることも容易になったからです。

 

こういった人間関係って、実は脆く、孤独を産みやすいのではないかなって、

このような人間関係がスタンダードとして存在しているのも「生きづらさ」と関係しているのではないかなって。

 

昔から考えとしてあったわけです。

 

甲冑を捨てて、生きる。

私たちは、産まれてからどのタイミングでかはさて置きながら、

傷をつけられ、薄汚れて、周りの目線に臆病になって、隠すように守るように甲冑や鎧を身に付けて生きています。

 

それは甲冑や鎧の大小は置いといても、みんな一緒だと思います。

どんな自信を持っている人でも、名声のある人でも、誰にも言われたくない晒されたくない何かを持っています。

 

人間って、完璧な姿がない生き物です。そして全く同じがない生き物です。

 

誰にでも、凄いところ、好きなところ、尊敬するところがあるように、嫌いなところ、苦手なところだってあるものです。

 

それが当たり前。だって人間はいびつになるように作られているから。

 

人間と人間のでこぼこがパズルのピースのように、受け入れ合い、認め合い、共存していくために、いびつに作られているのだと思います。

(こんなこと言ったら胡散臭いけど。)

 

でも人間って臆病だから、自分の傷や薄汚れた裸を守るために、見せないために、周りの人の傷や薄汚れた部分を嘲笑ってしまう…。それにまた怯えて、甲冑の上から甲冑を重ねていく…。

 

これが今の世の中だと思います。

 

自分を守るだけで、生きていくのが精一杯なんですよね。きっと。

 

自分だけで守り生きていくのが精一杯で、でも存在していいのか、生きていてもいいのか、分からなくて、気付いたら周りには人がいなくて。

 

そんな中、見た目だけでも強く凛々しく逞しく生きている人で溢れる社会です。

 

辛い人がいても手を差し伸べてあげられない、私も苦しくて手を差し伸べられる力がないから。

存在する価値がないと嘆いてても何も出来ない、私も存在する価値がないと思っているから。

 

何も出来ない、何もしてくれない、だから私は助けを求めらない、弱さを出せない。強くなければならない。

 

甲冑を付けるのは、私たちが臆病で弱いから。

 

でもその中に隠している、薄汚れて傷もついた身体は、私たちが繊細で優しいさまを表しているんだ、生きている証を表しているんだって思うのです。

 

だから、愛してあげてほしい。まずは私たち自身の醜い裸を。生きた証を。

 

最初に存在を愛してあげられるのは、きっと自分自身だって、きっと薄々わかってる。

 

愛してあげられたら、甲冑を脱ぎ捨てることも出来るのかもしれない。

周りも甲冑を脱ぎ捨てることが出来るかもしれない。

 

いつでも戦闘モードな甲冑姿ではなく、素顔が見えて柔らかい布を纏った私たちで関わりあえるかもしれない。

 

こーやっていつものようにウダウダと書きたいことを書き連ねていますが、

私はこういう社会を夢見ています。

 

いつも、どんなときも。

 

傷つけられた時も、ドロを被った時も、自己嫌悪になった時も、

最初は甲冑がなきゃって思うかもしれないけど、柔らかい布を纏える社会で生きたいと。

 

そして、甲冑を捨てることは弱さを見せることではなく、優しさと勇気を見せることだって信じていたいと。

 

いつものようにどうやって締めればいいかわからないけど、伝えたい気持ちを紡いでみました。

 

ニュアンスだけでも伝わってくれたら、幸せです。

 

 

 

 

 

 

「幸せに生きる」ってなんなんだ。

こんにちは!ちはるです。

 

ヒカリテラスの照らし隊を募集をはじめて、ヒカリテラスの運営をしっかりしはじめて、更に身が引き締まる思いでいたりします。

最初はひとりで始めたヒカリテラスだけど、とても心細かったけど、今も実は心細い気もするけど、「ヒカリテラスを大事なものにしていくぞ〜!!」とメラメラしていたりもします。

 

インターンも学校も忙しい日が続いているけど、たまに倒れそうな時もあるけど、スパイシーな日々を過ごせています。

 

今日は、私的に「幸せに生きる」ってなんだ?ってお話をば。

 

「何か夢とかあったりする?」

以前もブログにばっちり書いたのですが、やっぱり夢に関する質問はとても苦手です。

 

まぁでも、時期が時期ですし、希望に満ち溢れている大学一年生ですし、聞かれますよね()

 

先日、インターンでお世話になっているライターチームのリーダーのお兄さんに「何か夢とかあったりする?」と聞かれて、困ってアタフタしました。

 

夢に関する質問が苦手な理由のもう1つとして、野望とか夢とかに目が向かないくらいに、今でいっぱいだからっていうのが挙げられるかなと思います。

 

まともに高校を卒業して、大学生になって、メディアの世界でお仕事をさせてもらったり、いろんな経験をさせてもらっている今が夢心地すぎて。

 

今がもう既に夢のような気分なんですね、私。

 

ちゃんと生きてるし、生きてるって感覚も持てているし。

それすらが、夢のようだったりします。

 

そんな感じなので、

本当に答えられなくて、苦笑いで「幸せに生きるのが夢です!」なんて答えてしまったわけです。

 

本当は、「幸せに生きられたなぁと思いながら死ぬこと」なんて言おうとしたけど、さすがにドン引きされるなぁと思ってやめちゃいました笑

 

我ながらアバウトだなぁとか思いながら、私にとって「幸せに生きる」ってなんだろうと考え始めました。

 

幸せに生きる、人間らしく生きる

私が昔から念頭に置いているのは、人間らしく生きるというポイントです。

人間らしくというのは、私的には、自分の心から湧き出てくる感情みたいなニュアンスがあります。

 

だから私にとっての人間らしく生きるというのは、社会の色んな荒波に揉まれても、自分の中から湧き出てくる感情を殺すことなく大事に持ち続けながら生命を保つことだと考えています。

 

自分の感情を殺さないこと、

自分の感情を持ち、表現すること、

自分の感情を自分のアイデンティティとして守ること、

 

それらができることは、私にとって何にも代えがたい幸せなことです。

 

自分の感情を持ち表現することは、私にとっては、難しいことだけど素晴らしいことです。生きているという証を残せるから。

そして、自分の感情の揺らめきが自分のアイデンティティへと繋がっていくと思ってます。

 

でも、そんな大切な感情は、社会で生きていれば、荒波に揉まれてしまえば、簡単に自らの手とココロで殺せてしまうほど、繊細で脆いのです。

 

だから、感情って尊い。そして素晴らしいものだと思うのです。

 

私はそんな風に感情を紡ぎ、感情を守り、生きている証を残していけるような人間らしい生き方を送って、幸せに生きて死にたい。

 

これがきっと夢です。

 

別に凄いことをしたい訳でも、偉い人になりたい訳でも、社会的に名声が欲しい訳でも、成功したい訳でもなく、

ただのそこら辺の人でもいいから、人間らしく生きて、幸せに死ぬ。ただそれだけをしたい。

 

何になりたいか、何をやりたいかは、私にとってはどんな人生を送るか、どんな生き方をするかの1ページや手段にしかなりえないのです。

 

ただ、そういう風に生きたいと思ったら、私には社会の中の「生きづらさ」に弊害があり、何とかしなきゃ私の夢か叶わなくなってしまうので、私の夢を叶えるために、ヒカリテラスがあるのです。まぶぃーずもきっと一緒。

 

「社会のためだ〜」「国のためだ〜」って行動を起こすカッコイイ人や素晴らしい人とは違うんです。

そんな素晴らしく人間出来てないので、私。

 

あくまでも私のライフミッションを成功させるために私は今、「生きづらさ」というものに向き合ってます。

 

ついでに、社会ももっともっと良くなっていけばいいなと思ってますけどね。

 

 

 

ていう感じで、私的に考える幸せな生き方ってこんな感じですけど、皆さんはどうですか??

 

いろんな人の幸せな生き方を聞いてみたいなぁって思いました!

きっと一人ひとり、価値観が違って面白いんだろうなぁ。

 

それでは!明日は大学が一限からあるのでおやすみなさい〜‪( ´•౪•`)‬