ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

「孤独」と「居場所」の話をしよう

「孤独」というものは「生きづらさ」を助長すると思ってる。

誰にも理解も共感もされない、仲間もいない。不安だし、生きてる社会が冷たく感じるし、息が出来ない感覚になる。

きっとそんな状況下が「生きづらい」で、「生きづらさ」を更に助長してるんじゃないかって。

 

私は、人が多い場所が苦手だ。竹下通りも、新宿駅の構内も、渋谷のハチ公前、清水寺の大きな坂道も。酷い時は、学校の子がお喋りしている廊下ですらも苦手で、吐きそうになっていたほど。

人酔いっていうか、行きかう人々の感情に酔ってしまう。

 

怒り、苦しみ、悲しみ、嫉妬、殺意とか、喜び、憧れ、安心、そういう感情がゴロゴロと転がってて、揺さぶられる。

知らないうちに、心も体も疲れ果てて帰ってきたりする。何故か、冷たくて、息が出来なくて、苦しい。

私だけ取り残された気分になる。並々ならぬアウェー感を覚える。

かといって、地元に帰ってきてからも、知り合いに会うたびに怖くて逃げてるから、私には「居場所なんてないんじゃないか」って孤独を感じた。

 

私は今も昔も、ずっと「生きづらい」。多分、虐められたとか、体罰にあったとかなんて関係ない。不登校になったのも、学校には「居場所がない」と感じたからなんだと思う。

 

外の世界を知らないだけだ、思い過ごしに違いない、そんな事ない。

誰からもそう言われた、私自身も何度も何度もそう思おうとした。

 

「孤独」は人の視界を暗く狭くしていくものだ。よく言われることで、だからそう思いたかった。

 

両親とか、塾の先生とか、相談員の人とか、色んな大人に話してみたりもした。でも大抵の人は「もっと苦しい思いをしている人がいる」「私の方が苦しい」って簡単に言う。

 

私の苦しみを理解してくれる人はもういないと思ってた。孤独だなぁって思った。息が苦しいなぁ、もう嫌だなって。

 

更に心にふたをして、塞ぎ込んでいった。

 

カウンセリングを受けても、せっかく相談にのってくれても、「何でもない」と言い張った。

私が感じる違和感も、苦しみも、息苦しさも、誰からも理解できるものでない限り、私の中でなかったことにした。

 

私の中で起きる不調や、違和感を無視して、でも周りの感情に揺さぶられて、その揺れだけは無意識に反応し続けているサマを見て、「からっぽ」と感じるようになった。

 

何が起こってるのかもわからない。ただただ悲しい。訳も分からずに泣き、叫び、怒り、私を傷つけた。

 

私は空っぽ。何もない人間。価値がない人間。

 

そっから変わりたかった。一歩でも前に進んでみたかった。その一歩までに何年もかかった。

その一歩がつい最近かもしれない。

 

未だに何も言えないけど、簡単に苦しいことも、今起きていることも言えないけど、居場所づくりというモノを通して変わろうとしている。

 

私が欲しいと感じた居場所をつくろうとしている。

共感と理解が生まれる場所を、孤独を和らげられる居場所を。

私がこの社会で生きていくために必要だと思った。

 

居場所づくりを始めた時は、私がどうしてこんなに苦しいのかわからなかった。何かわからないけど、無性に息苦しい、そんな感情を抱いていた。

勝手に、不登校になったからだ、引きこもりになったからだ、うつ病だったからだ、と決めつけていた。

本当の理由はもっともっと深いところにあった。

「孤独」と「共感」と「居場所」。

 

だから、「孤独」と「圧倒的な共感のある居場所不足」は「生きづらい」を助長するだろうし、

「生きづらい」は何かの病気、何かの障害とかに関わらず、そのような孤独を含めた苦しみ、辛さを感じたことで、社会参加が難しい状態を指すのではないかと思った。

 

そのように指した時に、誰しもが「生きづらい」と感じる可能性がある。「生きづらい」によって苦しむ可能性がある。し、「生きづらい」はマイノリティではないと思う。

 

だから、共感・理解が生まれる場所をつくることに意味がある。私にとっても、当事者にとっても、きっと社会にとっても。

 

傷を負ったからこそ、それは知恵にでも力にでも変えられる。

今は自信がないけど、正直めちゃくちゃ怖いけど。

 

ポジティブに、ハッピーに生きよう!前向きになろう!なんて言わない。いつか、そうなりたいけど、心が痛い。そんな居場所、私はお呼びじゃない。

出来るのは、理解と共感。寄り添うだけ。何もできない。だけど私はそれで充分。

 

上手く生きられなくて、不器用で、敏感で、弱くて、傷つきやすいなら、その傷だけでも癒せる場でありたい。また傷ついたら戻ってリスタートすればいい。

私はそれだけのために立っていたいなと思った。みんなが戻ってこれるように旗を持ってお留守番役をしたい。

そういう居場所をつくりたい。言葉の力で。リアルな世界で。

 

だって今、生きづらいから。居場所が少なくて、欲しいから。

 

私も一緒。生きるの自信ない。生きづらい。不器用。

だから、居場所づくりをしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

波に揺られて色々。

深夜にこんばんわ、ちーです。

ここ最近、ほんと〜〜〜に心の波が激しくて仕方がなかったです。でも今月からまたスイッチ押し直して頑張ります。(いつも通り)

 

いつも人前には見せることは無いけれど、私の心の波は毎回毎回大荒れ状態です。w

ほんのちょっとの事でバランスが崩れやすく、ポロポロと壊れやすいのです。

自分のことであっても、家族や友達や仲間のことであっても、何も知らない他人のことであっても、すぐに感情の波が崩れやすい……。非常に脆すぎるw

 

そうなったら盛大に心を塞ぎがちになるし、自ずと引きこもりがちになるし、めっちゃ自分で自分を傷つけがちになって、その後に哲学的なことを考えがちになるのが、通常通り。

 

波に揺られて、色々あった(メンタルのところ)ことをただ綴っていきますね、今回は。

 

トラウマ多め、地雷も多め。

約18年間、それなりに普通に山あり谷ありで生きてきて、人並み以上にトラウマと地雷を抱えて生きてます。あと、生きるの不器用すぎて避けたりガードする方法も知らずにガッツリ当たって生きてるような人生です。

今までも割と何度かぶち当たって、瀕死状態に陥ったりもしてたんですけど、今回もまさにそんな感じ。

ここ一年近く、トラウマにも地雷にも運良く遭遇してなかったから、今回は長引いちゃいましたね。w

 

それで、そーいった状態になると身体って正直で、風邪引いたり、持病悪化したり、色んなモノに敏感になったりするんですよね。

だから、いろんな活動に距離置かせてもらってました。迷惑も割といっぱいかけました。

本当に何も手につかなくて、文章も人に見せられるような事は頭に浮かばないので書けてないし、外も出る気ないなぁみたいな。(まさに廃人化)

 

そーゆー時って無理にでも何かしないと自己嫌悪になってメンタルやばめになるので、何かやろうと思うんだけど、周りのみんなが気を使ってくれて作業が何も無くてw

なんか、そんな事今まであんまり無かったからじんわりと嬉しかったんだけど、周りに迷惑かけてる感じとか、何も進んでない状態見てて、めっちゃ自分責めてました。()

 

でもそんな中でも、ちょっと嬉しいことがあって、まぶぃーずのイベントに来てくれてた子から「ヒカリテラスについて興味あるんだけど」「いつまぶぃーず再開するんですか〜?」とか連絡をくれたり、「ちーちゃんと一緒にこんな事がやりたい」って言ってくれたりして、私が思い描いていた事が少しずつ周りにも広がっていってるのを感じて嬉しくなりました。

それに今はお休みしてるまぶぃーずも、ずっと思ってくれてる人がいる事にとても救われました。

 

そんな嬉しいこと、救われることが積み重なって、色んなことを考えるようになりました。

 

私が大事にしていたことを大事に思ってくれている人たちが、もっと生きやすく、幸せに生きられる何かを増やしたい、パワーアップさせたい。その為には私を何とかしなきゃ。

パワーアップするには今を知っていかないと、勉強していかないと。

 

ってずーっと思ってたので、「生きづらさ」とは何かを私の中で研究?したり、コーチングを俄ながらに勉強したり、今の社会を知りたくて、新聞やらニュースやら、ネットニュースとか色んなモノにかじりついて生活してました。

 

それと同時に、ずっと行きたかったタピオカ屋さんに行ったり、ウィンドウショッピングをしたり、図書館で本に囲まれたり、親子でカフェ巡りをしたり、美容院行ったり、勉強したり、ゲームをしたり、私を大事にする時間をたくさん取りました。

 

周りから、サボりだの、ニートだの、引きこもりだの言われても、それが事実でも、私にとっては大事な休養の時間なので、そういったタイミングが取れて良かったかもしれません。

 

不器用なりに生きてるので。

こういうトラウマと地雷にぶつかった時には、いつも生きるの不器用だなぁ、生きづらいなぁ、人間辞めたいなぁって思います。

 

文章の中だけは、素直で正直であろうと決めているので、このブログやTwitterとかを見てる人は感じてないと思うけど、

自己開示も、感情や意見を表現したり、伝えたり、そもそも人と関わるのが苦手です。(好きだけどね)

 

だからリアルな場所に居ると、頑なに私を塞ごうとするし、感情や意見も必要最低限だけ正直でいて、大抵は人に流されてるような奴です。簡単に言えば、嘘つきなコミュ障。

 

本当に一部の人以外は、私自身が私の感情とか考えてる事とか分からないまま、一緒に過ごしてたりします。

私と関わってくれる人との感情とか感じてることの境界線が元々曖昧というか薄くて、人付き合いが苦手なんです。

最近は少しずつ、濃くなっていった感じがしてて、人と関わるのがもっと好きになってきました。

 

でも色々、心の波が荒れて、ポロポロ崩れていった今は、せっかく濃くなってきた気がした境界線もまた薄くなろうとしていて、人と関わるのに怖気ついてます。

 

人に私の素性を見せるのが怖い、嫌われて孤独になって勝手に傷つけられるのも怖い、生きてく中で色んなものが怖い。

 

それでも、人と関わることや、感情とかは大好きだし、私が大事にしていることを守っていきつつも発展させていきたいと思ってるので、弱気なこと言ってられないんですよね。

自分のためにも、大事なもののためにも、弱くてもしっかり生きたい。

 

だから、頑張って生きてるのやめたいけど、頑張って生きてます。

チキンだから、元々めっちゃ弱いから、生きるの不器用だから、頑張って生きてます。

いつか不器用でも、めっちゃ弱くても、幸せに生きていけるように。

 

今月、今年最後だし仕切り直しますね〜(๑′ᴗ‵๑)

私も18歳の誕生日迎えるからね〜(๑′ᴗ‵๑)

頑張ろうねぇ〜(๑′ᴗ‵๑)

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁもう、N高も卒業かぁ……

こんにちは!(て書くけど、いつも深夜なんだよな)

今日は、在籍してるもうそろそろ卒業するN高についてお話がしたいので。

この前のブログにちょっと書いたやつとか、卒業することについてとか、思いとか、今のうちに書きとめておきたいです。

 

この前、遊びに行ってきましたw

この前、学校のお友達と制服デートをしてきました。w

無理言って、制服を着て、片道1時間かけて来てもらい、ランチに行って、色々お話して、プリ撮って、高校生らしい一日を過ごしました。

とても楽しかったし、嬉しかった(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

来てくれたお友達は、一般の高校では後輩にあたるんですね。

私は卒業なので来年はないけど、彼女たちには来年はあって、来年が最後なんです。

 

来年の文化祭についていろんな話を聞いて、頼もしいなぁと感心したのと一緒にものすっごい悲しくなったのが本音。

だって、私もう居ないんだもんw

 

でも、こうやって真剣になって来年の文化祭をより良いものにしようとしてくれる姿がとても嬉しかったです。

 

正直、普通の高校なら文化祭にそこまでの労力もかからないし、力を入れるって言っても期間で表すとせいぜい2ヶ月ちょっとです。

でも、N高の文化祭は半年かけて企画から、フードの試作・価格設定も、進行台本も、BGMも、当日のタイムスケジュールも全部決めていきます。

 

何よりも、どの学校よりも真剣で熱心、パッションがあると思ってます。これは本当に。

 

改めて不思議な高校、やばい高校だと感じました。

 

でも私はそーゆー子がいっぱい居る所が好きです。

 

卒業って早いし、あっという間。

私は高1の冬、逃げるようにN高に転校してきました。

「友達とか作らない」

「高卒の資格取れたらいい」

「楽しめなくてもいいから、穏やかに過ごしたい」

そんな思いで転校しました。

 

なのに、早々にお友達ができて、文化祭の前線で活動して、超パで合唱して、後輩って呼ばれる子と更に仲良くなって……。

 

知らないうちに、全国各地にお友達ができてました。w

 

超パの時、私は参加できなかったけど終わったあとに、友達に会いたいがために新都心に向かって、何も言わずに会いに行きました。(実は)

その時にたくさんの子から、「合格おめでとー!!!」って言ってもらえて、幸せでした。ていうか泣きそうだった。

 

素敵なお友達に恵まれてるなぁ、出会えて良かったなぁと思いました。

 

なんだかんだ言って不思議と一番楽しかった高校生活でした。

 

小学校も中学校も、学校に行かなくていい思い出も無かったし、周りに進路が決まっても素直に報告出来る友達も、素直に喜んでくれる友達もいなかったから。

 

正直、とてつもなく濃い高校生活でした。

 

嫌なことも辛いことも、許せないこともいっぱい経験したけど、人間らしくなれた気がしました。

 

大学が決まって、高校最後の学校行事も終わって、思ってるのは、

ただ悲しい。

ってことだけかもしれません。

 

もう学校のイベントでN高生として、みんなと肩を並べて何かをするなんて出来ないから。

外で見守るしか出来ないから。

当たり前のことなんですけどね、すごく寂しいです。

 

この遊びに行ったり、会いに行ったりして、来年はいないって事を強く感じさせられました。

 

卒業するって、こういう何とも言えない悲しいって感情になるんだ、みんなと一緒に何かをするって事がなくなるんだって。

 

多分絶対そうなるって訳じゃないけど、N高生としてはもう終わりですから。

 

普通の高校に通ってたら、こんな感情になることはなかったと思います。

なってたのかな?なってたとしてもここまでではないと思いたいw

 

良い事も悪い事も沢山あった高校生活でした。

多くの人と関わって、素晴らしい思い出を作れて、仲間を作り、友達と出会い、私は幸せだったと思います。

 

 

単純なことしか言えないけど、

卒業までのあと約5ヶ月、悔いの残らないように過ごしたいです。

大切な仲間たちと過ごす時間も、友達と話す時間も、高校生だから楽しめる時間も。

 

やりたい事リスト、近いうちに作ろうと思います。

高校生活、やりきるために。

 

大事に過ごしていきたいですね。それでは💓


f:id:Suzie126:20181107224742j:image

 

 

生きてるからには、私らしいストーリーを。

こんにちは!生きてます。ちーちゃんです。

 

ここ数日、めちゃめちゃ幸せでした。(唐突)

大好きな文化祭実行委員の後輩たちと制服デートをして、飛び入りで学校のお友達に愛に行ってきました。 

 

周りからは、そんな事?wって思われるかもしれないけど、私にとってはとても幸せな出来事でした。(また後で書くよ)

 

今日は、ブログの話をしたくて書きます。

 

あなたのブログはつまらない。

この軽くショッキングな言葉は、私が数ヶ月前見学に訪れた編集部のお姉さんに言われた言葉。

自分でもこのブログは面白くないと思っていながらも、この言葉は割と辛辣でした。

 

そりゃつまらなくて当然。

私のブログに綴られているのは、私のドロドロした感情に過去に思いに、経験者以外には伝わらない不登校や引きこもり、マイノリティについて。

一般的な()人が読んで、つまらない、面白くないのは当たり前。

 

だって、このブログには私のこの3年間の感情の全てが残っているんだから。

 

「あなたのブログはアウトプットが全くできてない、有益な情報が入っていない。」

そう言われて、すごく悩みました。今も悩みつつあります。

 

アウトプットって何?有益な情報って何?

不登校の子たちに何か良い情報を書いた方がいいの?

今苦しい人たちに、心が軽くなる情報を書いた方がいいの?

 

そんな情報、この世の中に沢山ありふれてしまってる。

似たようなこと、同じようなこと、書いたところで意味が無いじゃん。

 

何より、やった方がいいやらなきゃ、の思いだけで書いたものは全部、自分が嫌いになりそうなほど、読む度に憂鬱になる。

 

私は不登校の時、生きるのが苦しくなった時、生きるのを辞めたくなった時、ブログを読んでいました。

 

その中でも心を救われたのは、

不登校は悪くない」と淡々に綴られたものより、「不登校は学校復帰しないと人生終わる」って脅しよりも、「不登校から立ち直るには」のようなハウトゥー、方法よりも

何より、「生きるの苦しい」「不登校なった、もう終わった」っていう人間臭い感情が溢れたブログでした。

(そんな鬱々した感情のブログばっかじゃなくて、日々こう思った、あー考えた、どんな一日だったっていう感情の記録全体)

 

情報なんかあちこちに転がってる、新聞開いて、本読んで、テレビ見て、YouTube開いたり、ネット漁れば、欲しい情報も欲しくない情報も手に入ってしまうんです。

 

私にとっては、感情のこもってないハウトゥーとか方法とかの情報しかないブログの方がつまらなかったです。当時も多分今も。

 

だから、めいいっぱい考えました。

 

面白いブログってなんだ、つまらないブログってなんだ。

そもそも、ブログの価値観なんてそれぞれなんだから。自分が書きたいものを綴ればいいじゃん。

 

じゃあ、何書くよ。

 

どうせ生きてるなら、私らしいものを残したいよね。

結局、落ち着く先は私のストーリーを綴ること。だって、せっかく生きてるんだもん。

それに、自分にしか伝えられない事、自分にしか書けない事は、自分のストーリーでしかないと思ってます。

 

他人に私の感情なんて読めやしないし、私にも他人の感情は読めない。察するしかできない。

だから、自分のことは自分にしか書けない。

 

その中で誰かの力や光になれたなら、私にも生きてる価値があったんだと思える。そう思います。

 

もしそうならなくても、残すことで私の光になります。

このブログを初めて約2年間、私の人生史上最も大きなイベントが立て続けに起こり続けた期間です。

私自身も大きく変わっていったし、環境もすごく変わりました。

そんな中での感情の流れや、気持ちの変化が残っているのはこのブログだけなんです。

私はこれだけ変われた、それだけで十分私の光です。

 

言葉の力は光を照らせる、本当です。私はそう信じてます。

 

きっとこのブログから、全ては始まったんだなと思います。

 

私のために、私のことを、私の手によって書いていくブログ。

まさに自己満の極みw

 

でも、昔から変わりません。

 

このブログがあることで、私はもっと成長できたし、素直でいられたし、少しずつ私を好きになれた。

 

なんかね、じんわり幸せです。

 

未だに読んでくれている人がいることも、更新しなくても待ってくれる人がいることも、私の言葉が好きだと言ってくれる人がいることも、すごくすごく幸せなことです。

 

ありがとうございます。

 

これからも自己満の極みで突き進みますが、暖かい目とココロで見守ってください。

 

それではっ!!!!

 

 

 

心が動けないのは致命傷。

こんにちは!ちーです。

 

受験が終わってからというもの、やらなきゃいけない作業が次から次へと顔を出し始めて、ロボットのように淡々と作業をこなし、決められたように何かをするっていう人間味のない毎日を過ごしてます。

皆様はいかがでしょうか。???

最近は無理にでも感情を沸き立たせて心を動かしてます。そうしなきゃ、心が凝り固まっちゃうからね。

心が凝り固まると、ちょっとした感情の揺れでもものすごく疲れてしまうのです。(誰かの感情に触れたり、文面から感じ取ったり、そんな日常生活の中にある感情がね。)

 

正直、原因はロボットみたいな生活と受験前後からくる疲れと焦りと不安。

 

あ~~~~、よろしくない。

 

この事案も忘れないうちに綴っていきましょうか。

 

心が動けなくなった経緯。

まぁ今までに心が動けなくなったことは幾度もあるんですが、総じて人間味の薄れる生活が原因なんです。

 

どうしてかというと、そういう生活を続けることで

これは、私じゃなくて他の人間でもロボットでも代用可能だ。

私は、人間的な意味で必要とされてないのではないか。

それなら私には人間としての魅力、価値がないのか。そうか。

と考えてしまうから。

 

私の一番のコンプレックスは、

圧倒的に人間としての魅力を持っていないことです。

(だから、感情という部分や、言葉を綴る、表現することに執着しがち。)

 

だから、余計に人間味の薄れる作業メインの生活を送ると心が動けなくなるし、メンタルが消耗するっていう悪循環が起こるのです。

逆に病んでるかもしれないし、ネガティブすぎるかもしれないけど、感情が機能している状態の方が私にとって健全なのです。

 

そして人間味の薄れる生活を生んでしまったのは、受験前後に作業が出来なかったこと、団体を放置してしまったことによる焦りだと思います。

そうとは言っても、受験の前日までは本格的に動いていました。しかし、周りが遠慮してくれていたからか、私が無意識的に活動量を減らしていたからか、低浮上気味でした。

団体が動いていないことに対して、発起人、長としての責任感や焦りが強くなって言って、受験期に出来てなかった作業を急ピッチで進めたり、出来てなかったMTGを本格的に始めたりして、自ら忙しくしていました。(マジ何やってるのw)

それで、色んな人から話を聞いてみたりして、企画を新しくやってみたら良いのではないか、イベントやったら面白いのではないか、と意見を聞いて、お、やろう!と団体へ持ち帰り相談。(いや、ただのあほやんw)

でも、やっぱり基本がしっかりしていない段階での新しい企画は危険だ、とメンバーの子から意見をもらい、年内に基礎を固めること、メンバーの育成に力を入れることを頭に入れ、活動をリスタートしました。

 

ちゃんとメンバーの子がストップをかけてくれてよかった(私のためじゃないけど)。

 

それでも、立ち上げたばかりのプロジェクトにはトラブルはつきものだし、作業は次から次へと増えていきます。

全部自分で背負うことはないんだろうけど、メンバーに作業をお願いすることも慣れてなくて難しいです。

少しずつ、人に頼れるようになりたいものです。

 

私にとって、心が動かないのは致命傷。

最初の方に書いた通り、私のコンプレックスは圧倒的に人間としての魅力を持っていないこと。

人間っぽいというのは、感情の動き具合や、心の動きや揺らめき具合が活発である事かなと思っています。

だから私にとって、心が動かないのはロボットと同じ、人間としては致命傷なのです。

 

またこのブログやkotobaのブログ、Twitterにしても、言葉で表現するとなると、やはり心が動けないのはすごく怖いです。

つい最近まで、Twitterとブログ共に低浮上、更新頻度が低かったのは、この事案が原因です。

 

ずっとこんな調子で、やばいな~、本当に何も感じられない、何も書けな~い、て思ってました。

書きたい内容は山ほどあっても、感情と言葉が追い付かない、指がキーボードの上を踊ってくれない事ばっかりですごく悩んでいました。

 

今回ようやくかけるのは、少しずつ無理にでも心を動かしてたから。

使ってないと、何でもそうですけど動きづらいんですよね。心も同じことで感情に触れて、心を動かさないと、凝り固まっちゃって更にロボット臭くなるし、感情に疲れやすくなってしまう。

 

本当にパワーバランスって難しいですね。そして休息もとても大事ですね。

 

休息をとることで人間味は取り戻せるので。

ネイルをしてもらう、人と話す、メイクをする、お買い物に出かける、ヲタ活をする、映画を見る、小説やマンガを読む、美味しいご飯を食べる……。

何気ない事も、人間らしいなぁと思えるので本当に大事です。そしてポジティブな方向で感情が湧いてくれるので傍から見ても健全ですw

 

このブログをはじめたての頃は、また心が動かなくなるなんて思ってもみませんでした。ブログを書くたび、涙を浮かべて書いていたんですから。

 

泣きながらブログを書くのが正しいとは絶対思いませんけど、またそうやってブログを書きたいなぁと思いました。

 

その為にも、休息をとる、感情を大事にする、心も大事にしようと思います♪

 

それでは!!!

 

ラッキーの連続の中、生きてる。

こんにちは!お久しぶりです!ちーです。

いかがお過ごしでしょうか。

 

ブログでは「暑い」「早く冬になれ」と言っていましたが、あっという間に涼しくなってきました。

一か月ぶりなんですね、そりゃ涼しくなるわ()そして、こんなに日にちを空けてブログや文章を書かない日が来るなんて思ってもみませんでしたw

 

今日はご報告も兼ねて、私の「ラッキー」について書こうと思います。

 

てなわけで一つご報告、

私、大学に合格しました!!!!

本当にびっくり、大の苦手の面接があるAOで合格しました。でも先に進路が決まって、心の底から安心しました。

詳しい話はここでは、もう少し先で書かせていただくけど、私なりに「もっと深く社会について知るには」という観点で決めた大きな決断でした。

本当にうれしい!

何より、私の合格を喜んでくれる人が周りに沢山いる事がとても嬉しかったです。

 

きっと、ラッキーの連続の中、生きてる。

私は最近、すごくラッキーに囲まれてるような感覚があります。

奇跡とか、運命とか、ラッキーとか、偶然とか。そんな言葉に取り囲まれてる感じ。

 

正直、私の人生はそれなりに嫌なことも、苦しいことも、たくさんあったけれど、今は私の幸せを喜んでくれる人が周りに沢山いて、夢を語れる仲間がいて、私のやりたいことに協力してくれる、応援してくれる人がいて、とても幸せ。

 

こんなに素敵な人に囲まれて、素敵な事が出来るのは、ラッキーであるほかならないと思います。

同じように活動しようと思っても、きっとタイミングやチャンスが合わないととんとん拍子には進まないし、折れてた可能性だってあります。

 

こうやってブログをはじめたことも、夢やこれからの社会を語り合える仲間と出逢ったことも、憧れの職業を経験したこと、人前で自分の経験を話せたこと、「自分の傷を誰かの力に変える」環境を手にしたこと。

 

自分の人生を自分で切り開いてきた。そんな風に言ってくれる人もいるけど、ラッキーだった、奇跡でしかなかった、そうとしか言いようがない出来事たちです。

 

私は誰よりも、ラッキーの連続の中で生きていけている。そんな風に思える今日この頃だったりします。

 

ラッキーを周りに増やしていきたい(願望)

私は、色んな場所でもっともっとラッキーってものが生まれていくと幸せだなぁなんて思います。

もちろん、何かを達成したり、夢を叶えるために努力を続けることも必要不可欠です。

努力をしても、頑張っても、一歩届かずに諦めてしまうことだって多くあります。でもその一歩届かない所に手を差し伸べるのが、ラッキーだったり、奇跡って呼ばれるものなんじゃないかなと信じたいです。

(1億の宝くじはさておき)

また、その先の未来のチャンスへ繋げるのもラッキーや奇跡と呼ばれるものの力なんじゃないかなって。

 

そのラッキーを生み出す可能性があるのが、きっかけ作り(メディア)なのかなと。

まぁ、こじつけや!って言われたらそうかもしれませんけど。

 

言葉って人に影響を与えることができるんです。いい意味でも悪い意味でも。

だから、メディアからの発信、言葉の発信をすることで、誰かしらの心に届けることはできるし、行動する、動いてみるきっかけになりうると信じてます。

 

正直、ラッキーだなんて、運がいい人だけの話でしょって思うかもしれないし、実際問題そうかもしれない。

でも、動いてみる、行動してみる、一歩踏み出してみる、そういった小さなことは奇跡やラッキーへの大きな第一歩です。

そういった小さな一歩、大きな第一歩がラッキーや奇跡になる可能性があるなら、きっとそのきっかけを作ることだって、ラッキーを増やすことになるんじゃないか。

 

だから、私はメディアや言葉には大きな可能性を秘めているんじゃないかってワクワクしています。

それに、ラッキーや奇跡っていっぱい巡り合えた方がいいもんね。(いっぱいあったらラッキーや奇跡って言わないのかな)

 

そんなきっかけを作っていくためにも、ヒカリテラスの方をガンガンでも、ゆる~っと頑張っていけたらいいなと思います♡

 

ちなみにヒカリテラスの月一ラジオが今週の土曜日の19:00-19:30にFM ISにて放送されます。フレッシュなヒカリテラスの仲間たちが出ているのでお時間ある方は聞いていただけると嬉しいです!

 

👇こちらから聴けます👇

www.jcbasimul.com

 

最後にちゃっかり宣伝を忘れない(ドヤ)

 

それでは~!!

みんなバラバラが、大切で素敵である。#ことヒカ

こんにちは!ちーです。

少し寒くなってきたかと思ったら、そうでもなくって、ワクワクして秋服を出した私は軽くショックを受けました。w

ずっと前から、冬が好きって言ってますけども、服も秋冬服が好きで(ニットとかが好き)楽しみにしてたんですね。🍂

 

というわけで、今日は気づきというか、考えたことみたいな。そんな事を書きたいので書かせてくださいね。

 

「一人ひとりの感情を大事にする」人でありたいね。

ヒカリテラスをはじめた時に、何よりも最初に決めていたことがありました。

「一人ひとりの感情、思い、考えを大事にできる人になる」ということ。

 

これはヒカリテラスを始めた時から課しているんですけど、自分の物差しで色んなものを測らないようにしたいと思っていて。特に、誰かの意見だったり、感情だったり。

 

そういったものは、同じ経験をしていたとしても、その経験から感じ取ることも、学ぶことも、様々なため、100%全く同じように理解することは難しいから。

そして、自分の意見や感情は、一番自分が良く分かっていて、周りから指図されたり、教えられるものではないから。

 

同じように不登校であっても、引きこもりであっても、いじめ・体罰を受けていたとしても、どれくらいの苦しみ・痛みを受けてきたかは、人によって様々。

同じ出来事だったとしても、それぞれの受け取り方や、器の大きさはそれぞれだしね。

経験したこともないことなら、尚更自分の物差しで測ることは難しいし、むしろ失礼。

 

そして何よりも、そういった価値観や感情、思い、考えは、その人自身が語るからこそ、素敵になっていくものだと感じています。

いくら、人から避けられてしまいがちなネガティブな感情であったとしても、どんな感情でも、その人の考え方・価値観に触れられる貴重なものだと思ってるので。

(だと思ってるから、お涙頂戴とか、ポジティブに繕ったりとかっていう味付けが好きじゃないし、それはフィクションの世界でやってくれと思う。)

 

てなわけで、自分の価値観で人を測らない、一人ひとりの感情とか価値観を大事に出来る人になろうと決めたわけです。

これは、ヒカリテラスだけじゃなくて、色んな場面でも。

 

そうなることで、よりもっと色んな人の素敵な所を知ることができるから。

 

みんなバラバラが、何よりも大切で素敵なこと。

最近の好きな歌の歌詞を貼り付けますね。

 

なんてことない今日も 
誰かの大切なもの 
なんてことない明日も 
待ち望む人がいる
 

never ender/kz

 

ボカロの歌詞なんですけど、初めて聞いたときに目頭がじんわりしました。

きっとこれは、みんながそれぞれ感じるモノも価値観もバラバラだからこそ、これは誰かにとっては大切なモノで、これは私にとって大切なモノで、みんな誰かにとっては大切なモノなんじゃないかって感じられる。

 

こういうことじゃないかもしれないけど、誰かと違う感情を持っていたとしても、誰かから避けられてしまう感情だったとしても、それは自分自身を作りあげる感情で大切なモノなんだと思うし、

それが自分自身にとっては大切ではない感情だとしても、誰かにとっては貴重な意見だったり、希望になるヒカリの一つかもしれない。

 

それと同じように、周りの人が違う感情を持っていたとしても、自分には受け入れられない感情だったとしても、それはその人にとって必要で大事なモノかもしれないし、

また違う誰かにとっての、大切なモノかもしれない。

 

きっと価値観や感情や思いなんかは、誰かの大切になれるモノだと思っているからこそ、その大切なモノを私も大事にしたいなぁと感じました!

 

終わりが見えないけども()、今日はこんなところでおさらばしましょう!

 

それでは~~~~!