ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

行動の物差しはどこに存在するのか。

こんにちは!ちはるです!

高校卒業ロスがすごくて、大学生になる実感も湧かないまま、大学のガイダンスに行ってきました。

優しい子が周りに多くて、めちゃくちゃ安心.....!

インターンも、先輩や同期のお兄さんお姉さんがとても優しくて、最近は忙しいけどとても楽しいです!

 

今回は、行動の指標である物差しについて、最近いろんなことを思うのでそのはなしをば。

 

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

この言葉、恐らく私が小学校に上がった時から当たり前のようにボキャブラリーとして入っていた言葉。若いうちから知っている人も多いかと思います。

 

最近、行動の指標である物差しはどこに存在しているのか、どこに存在しているのがベストなのかを考えています。

どうしてかというと、安直に周りと同じようにしていれば間違いないと思っている人が多いんじゃないかと感じることが増えたからです。

 

例えば大人数のLINEグループで、自己アピールが多い人がいてその人を一人が責めたらみんなで袋叩きにする、一人がコミュニティのルールを破ったらみんなで破り始める、Twitterで一人が悪口を言ったら、それをに続くように悪口合戦が始まる。

 

悪いことだけじゃなくても、みんなが提出書類を持って行ってるから持っていく、みんながここに集まってるから向かうとか。

 

赤信号、みんなで渡れば怖くない精神はやっぱり、昔の昔から染みついているみたいです。私たちには。最近は少しずつ薄れつつある、多数派が正しいという考え方もまだまだ根深いのも関係はしていそうです。

 

どこで良し悪しを判断しているのか、自分の行動を何で判断して決定しているのか、どこを指標として、物差しとして行動しているのか。

 

多くの人が周りの誰かや、大多数を指標に行動を決定しているのなら、ちょっと怖い。

 

何も考えず、流されるまま行動することで、何も感じずに人を容易く攻撃できてしまうし、間違いであることに気が付かないまま、進んでしまうことだってあります。

 

また、その大多数の意見に固執することで、自分自身の幅を狭めたり、苦しめたりすることもあります。

 

だから、行動の物差しは自分の考えの芯の部分に存在しておくべきなんだと思います。

 

多数派であることだけで慢心しちゃいけない

この世の中、多数派のルートなら正解、多数派の意見が絶対だ、なんてことは少なくなりました。多数派であることで安心なんて言えなくなりました。

いろんな肌の色、いろんな性格、特徴、思考など、いろんなものを持ったもの同士が共存する世界で、お互いを尊重し合う世の中に変わっていっていますし、そのスピードはこれから更に増していきます。きっとね。

 

そんな世の中で、多数派であることに慢心していると、多数派という何かが無くなった時に、行動の指標の物差しを無くしたも同然になります。

物差しを無くして、どうやって善し悪しや行動を選択し決定するのか…。

 

多数派でいることは決して悪いことではないし、むしろよく有ることです。でも、周りと一緒だから、周りと同じだから、という安易な理由で行動決定する前に、一度、自分の物差しで考え、判断してみて欲しいです。

 

今やろうとしている事が、どんな影響があるのか、やった後どんなことが起こるのか、これは自分にとって正しい行いか。

 

多分じっくり考えれば、周りの意見があっても揺らがない自分の芯の部分が見えてくるはずです。

これは絶対にやらない、人に嫌な思いをさせない、自分の心が楽になる選択をする、など。

 

その芯を大切にしてほしい。そう最近はずーっと思ってます。

 

その自分の物差しが周りとメモリや大きさが違くても、周りから「有り得ない」と笑われても、それが自分の生き方になっていくはずです。

 

その考え方や選択が、自分自身の力になり、自信にも繋がっていくはずです。

 

そう信じて、私も自分の物差しを大事にしていきたいなと思います(* ´ ˘ ` *)

 

それでは〜❤

 

 

 

 

 

 

 

上書き、頑張ろ。

こんにちは!

 

先週あたりからぼちぼちお仕事をはじめました。

世の中的にはインターンと呼ぶそうです。緊張ではち切れそうなのですが、ご縁があって出来たことなので喰らい付いていきたいところです。

 

今日はそんな最近の話をしましょう。雑記みたいな!

 

適応力低めだなぁ。

新しい場所、新しい職場、みたいな環境って得意な人あまりいないと思うのですが、私は人一倍苦手です笑

昔、そういう日の前夜は、「行きたくないよ〜」と泣きじゃくっていました。

今でも、やっぱり怖さとか緊張とか抱きますし、「行きたくないなぁ」と思ったりもします。

現場に行くと、取り繕いのプロなのでそういった様子は見せないことの方が多いですけどね。(スクーリングで出会った子にコミュ力高いと言われ、心が痛くなった。)

 

以前、ライターとして働いていた職場でも最初の方は、ドキドキが止まらなくて、毎日お腹や頭が痛くなったり、前日ないたり、帰りの電車でも泣いたりと、傍迷惑なことをしていました。

(いや、最後の最後まで緊張はしてたな.....笑)

 

最近ようやくまた、ライターとしてお仕事をさせてもらえる機会ができ、お仕事をはじめて、以前の職場を思い出しちゃいましたね。

 

前はどうやって、適応してたっけ?って感じで。

 

というのも初日こそ、あまりこわばることは無かったものの、2日目の出勤の日、めちゃくちゃ怖くて!

 

どうしよ、どうしよ、まわりに迷惑かけたらどうしよう、お腹痛くなったらどうしようって。

 

家を出る前、フラフラになりながら準備しました。メンタルめっちゃ弱いですよね。笑

 

家出る直前に、下痢止めと痛み止めをポーチに突っ込み駅まで歩きました。

 

家から職場まで結構距離があるのですが、その間イヤホンをつけて何も聞かずに、仕事について考えてました。それくらい緊張しいで怖がり。

 

でも職場に着いたら、やっぱり怖さとか緊張はあったものの、そうでも無かったです。

 

周りのお兄さんお姉さんが優しく、先輩の方も明るく優しく接してくれました。

だから、ちゃんと挨拶も出来たし、困ったことも聞きにいくことが出来ました。社会人として当たり前だけど、私からしたら頑張ったと思います()

 

明日からぼちぼちシフトを入れて、本格的に頑張っていくので、気を抜きつつゆっくり慣れていきたいです。

 

仕事への恐怖心を上書き。

ところで、どこかの何かで読んだのですがトラウマ嫌なことに対しての解決法として、

良い思い出、良い経験を上書きするという方法があるそうです。

 

例えば、先生から体罰を受けたことで学校不信になった場合は、どこかで優しく接してもらえた先生と出会うことで、先生に対しての嫌な思い出上書きるみたいな。

 

私は実は、仕事と呼ばれる事柄が怖い時期がありました。

 

でも、私が好きな文章を書くことを仕事にし、お金をいただくことを経験したことで、仕事に対する恐怖心が薄れはじめてきました。

今でも、仕事という関係性での人との繋がりには怖さを感じることもありますが、今の職場で良い経験を重ねていくことで、恐怖心を払拭できたらいいなぁなんて思います。

 

トラウマとか嫌な経験とかって実生活で必要性がそこまで無いものなら、逃げ切れるし、代替案とかがあるけど、避けては通れないものも多いかなぁと。

 

特に人間関係とか仕事とか。

 

嫌なものはもう1回敢えて突っ込みたいとは誰も思わないけど、怯んでばかりでは進まないことばかりです。

 

痛いし苦しいこといっぱいあるし、正直疲れます。笑

 

仕事ってだけで、心が折れそうになります。笑

 

でも同じ内容でも違う環境なら、きっと大丈夫かもしれないって暗示かけて、頑張ってます。笑

 

今回の職場も、以前の職場と同じように雰囲気が良くて、ちょっと頑張れそうなんです!

 

あぁ、恐怖心を上書きできますように!!!

 

良かったら、心の片隅で応援してくださいね.....笑

 

 

 

幸せだと言える生き方は全て美しい。

こんにちは、卒業式が終わりました。

N高生として卒業について、卒業式について書きません。それらは、きっとただの節目に過ぎず、何も変わることはないから。

 

今日は、生き方について。

 

「逃げ」はれっきとした選択肢。

学校を辞める、仕事を辞める、休学する、長期休暇をとる、引きこもる、ニートになる、

こういった選択をすると、周りはこう言います。

 

「逃げたら最後だよ。」

「この先にはもう道はないよ。」

「逃げたところで何も変わらないよ。」

 

私が思うに周りで生きている人は、どうやら、逃げるという行為が嫌いみたいです。「逃げるな、戦え」という思考の方が多いイメージがあります。

 

多分、逃げたことがないからです。逃げた先を知らないからです。

 

私が学校に行かなくなった時、周りは必死に学校に戻すように、中学に行くように、全日制の高校に行けるように、と色んな事をしてくれました。

でも、その裏腹に、私の心は荒みに荒んでボロボロになりました。

 

頑張っても、努力して結果がついても、誰にも認められないし、やりたくない事を強いられて、誰のために何のために生きているのかも分からなくなりました。

 

見えない苦しみを与える何かに、立ち向かえば、立ち向かうほどに、心に傷がついて、芯が折れ、皮だけで繋がって何とか生きている気分でした。

 

でも、その環境から別れて、逃げてみたことで光が見えました。

その光に手を伸ばしたことで、逃げた先の道を見つけ、必死こいて切り開いた先が今です。

 

色んなことを、色んな人に言われたけど、

逃げた先に道はあったし、全然まだまだこれからだし、私の中で変わったことだっていっぱいあります。

 

だから私は逃げた選択を後悔していないです。

そして、自分の選択を信じて進めば道は切り開けるって信じるようになりました。(きれいごと気持ち悪いね笑)

 

この話で何を伝えたいかというと、「逃げるな、戦え」はただの1つの価値観に過ぎず、言った人の美徳でしかないってことです。

 

だから、チートのように扱われがちな逃げという選択肢はれっきとした1つの選択肢なんです。

 

どんな形でも幸せなら美しい

 

逃げという選択肢にしても、何にしても、生きようと思ったら、非難されることも、苦しいアドバイスをもらうことも、批判されることもあります。人生ですから。

 

でも、その人たちの意見を全部反映させる必要はないんです。

悩んだ時に経験者からの耳を傾けて、困った時にたくさんの意見を参考にすれば良いのです。

 

その人生を生きるのは、貴方しか居ないし、決定権を持つのも貴方だけです。

 

そして、誰かから褒められるような、羨ましがられるような生き方を、無理にしなくてもいいんです。

 

社会の声は時代と共に変わります。周りの人がすごいと言う生き方も変わっていきます。

だから、貴方が幸せだと胸を張れる生き方がある方向へ、それがどんな道でも歩んでいけばいいのです。

 

幸せだと感じられる生き方がそこにあれば、その生き方はどんな形であっても、美しいことに変わりはありません。

 

貴方の心と生命が健やかに過ごせているのであれば、きっとそれはステキな人生です。

 

私自身も、これから先、色んなことが待ち受けていたとしても、私の思う幸せを大事に、私らしい生き方を作っていきたいです。

私の中で、私が思う美しい生き方を研究したいです。

 

幸せで美しい生き方を求めて、挑戦する、挑戦しようとするステキな人に、これから先も幸せで美しい生き方であることを祈ります。

 

それでは〜♡

 

 

 

 

自己防衛

春から新しい生活が始まるとのことで、お部屋の大掃除と大断捨離会を行っているちはるです。

色んなものを捨てたくなる時期ってありますよね、思い出したくない時代の物とか特に。

 

今回に関しては、前向きな大掃除ですけど!笑

 

今日は自己防衛のお話をば。

 

自分を守るために何をする?

最近、謝りすぎてしまう人の心理状況について勉強しているのですが、色んな状況がある中で興味深いことを知りました。

謝りすぎてしまう人は、罪業妄想(自分自身を罪深い人と思い込むこと)を抱いていたり、自罰感情が人一倍強かったりとありますが、

プライドが高いが故に、誰かから怒られたり呆れられたりする前に謝って、自分自身が負う傷を少なくし、守ろうとする心理が働くこともあるそうです。人との衝突を避けるため、自分自身のテリトリーに踏み込まれないためという理由もあります。

 

どんな人間でも、薄かろうが厚かろうが自分のテリトリーを守る心の壁は存在してると思います。

だから自己防衛をするのは、意外と当たり前なんですね。

 

謝罪をしたり、距離をとったり、嘘をついたり。

 

まぁただ、それらは圧倒的に自己満足でしかなく、傍から見たらそれもまた複雑な気持ちにさせることもあるのかなぁと思うわけです。

 

嘘をつくことははなから信頼していない証拠ですし、距離を取ることは関わりたくないと遮断すること、謝ることにおいてはお互いに萎縮しがちです。

(昔は全部やってました♡)

 

自己防衛というものは、今どき大事です。

引きこもりになっても、そこにネット環境がある限り誰とでも繋がり、コミュニケーションが取れる時代です。

しかし、リアルな世界での世界観と似ていて、ガードを張らなかったら、苦しい関わりと出くわす可能性も高く、苦しい気持ちになる時もあります。

誰もが心に多少なりとも傷を持っていて、どこに地雷があるか、いつ傷がまた開くかわからないので。

 

ちょうどいい心の壁を築く

自己防衛は大事ですが、やりすぎは何事も良くないし、これもそうだと思います。

 

私も100%ダメージカットの壁を築き上げた経験(?)がありますが、そこで何を得たかというと孤独自分自身への不信感でした。

 

そりゃ、分厚い心の壁作って、嘘ついて、謝り通して、人と関わらなきゃそうなりますよね。普通。

周りに人がいない環境にいると、もちろん孤独は生まれます。

それに、自分の中の物差しでしかいろんなモノを解釈できなくなるので、頭が硬くなり、自分自身すら不信になります。

 

それは生きてく上で、とっても深刻な事態。

 

だから、思った。

ちょうど良い心の壁、自分自身の傷を守れるように、心を抉らせないようにするギリギリの壁を作れたら最高ですよね。

 

そこで、私は自己開示ではないのかなぁと思いました!

もちろん話してみなきゃ、どういう反応されるか、話すことでどんな影響があるのか、わからないので恐怖心はありますが。

 

もし仮に、話して嫌な気持ちになったり、傷ついたら、その人にはもう一枚ガードを張ればいいし、ついた傷はあなた自身が挑戦した勲章です。

 

でも、分かち合えたら、理解してもらえたら、少しずつ壁をとっぱらってコミュニケーションを取ることが気軽になるんじゃないかなぁと思ってます。

 

自己防衛によって壁をつくり、自己開示によって壁を壊す、この繰り返しによってちょうど良い心の壁を築き上げることができるのだと思います。

 

弱冠18歳の私には、まだまだちょうど良い心の壁は出来ていませんが、まだまだ分厚く重い壁を背負っていますが、自己開示と自己防衛を繰り返し、ちょうど良い心の壁を築き上げていきたいなぁと思います!

 

何事も実験、何事も挑戦ですので、コミュニケーションの方も頑張りたいです!新生活始まるので笑

 

 

 

 

 

 

コンプレックス

こんにちは、今日は学校のお友達が開催しているイベントに参加するために電車に乗ってます。

 

根っからの引きこもり体質らしく、誰かと会う、何かミーティングするっていう重要な用事以外、なかなか外に出ようとならないので、今回は結構珍しいような気がします。

 

珍しい日をさらに珍しくしようと、髪の毛を巻き、ヘアアレンジをしました。私の髪の毛があまり好きではなく、こだわりがなかったのでかなりレア。

ちょっと前に出てる頬骨が嫌で今まではシェーディングを入れてたけど、やめてみました。

今までは、似合わないからと可愛いピンクのリップも躊躇してましたが、今日は付けてます。

とても珍しいし、外見も内面もコンプレックスだらけだなぁと改めて感じる今日です。

 

ところで、今回はコンプレックスの話がしたく、電車の中でスマホから書いてます。

 

人生全部がコンプレックス

昔のブログを遡ると、人生全部がコンプレックスだったということが書いてありました。

そうじゃなくなってきた、なんて思った時も山ほどあったけど、最近また、やっぱり人生全部がコンプレックスだなぁなんて感じるわけです。

自分の過去やこれまで歩んできた道には、悔いもないですし、恥ずかしくはないんですが、

こうやってのうのうと生きている自分自身がコンプレックス。

 

特に、

アイデンティティと個性がない自分

万年、代役体質な自分

圧倒的に人間的魅力がない自分

がいつになってもコンプレックス。

 

それはきっと、幼稚園に通っていた頃から。

 

コミュニティの中に、いろんな役柄が用意されている中で、そのどこの役にも入れない。

平民Dすら役が埋まってしまっている。

なら、役柄に似合う人間を演じてアピールするしかない、新しい役柄を作り演じるしかない。

 

そう悟っていたのでしょう。

 

これが仮面人間の誕生であり、すーちゃんの始まりでした。

 

それが嫌になって逃げ出したりもしたわけですが、そのコンプレックスが消えていくわけはなかったのです。

 

ずっと、その無個性コンプレックスは付きまとっています。

 

自分には何も無いから、少なくとも何でも出来ないと、何でも一番に頑張らないと。

それが私にとって、たった一つの縋りつける役柄だったから。

 

きっと今、そんな感じ。

 

嫌気がさして、色んなことに烏滸がましく感じて、時間だけが過ぎていく感じ。

 

単純に、私が私として、私を持って生きていく自信が持てないんです。

 

無個性で、周りに埋もれてしまう、代役体質の私に自信が持てないんです。

 

きっと誰もそう思ってるだなんて、思ってないだろうけど。

こんな多分、一番醜い感情を吐き出したら、周りに良くないだろうけど。

 

それでも、

今日ここで書いたのは、それをちゃんと受け入れる努力をしようと思ったからです。

 

コンプレックスを受け入れる

きっと誰でもそうだけど、コンプレックスからは目を背けたくなります。

コンプレックスを無くしたいと努力します。

例えば、腫れぼったい一重がコンプレックスなら、暗いアイシャドーを乗せたり、アイプチで二重にしたり。

 

でも、もう1つ、コンプレックスを何とかする方法はあって、それが受け入れることです。

 

私の場合、無個性であることがコンプレックスなので無くすという概念が存在しません。

だから、受け入れるしかないんですね。

 

無個性であっても、大丈夫。何も無くても、大丈夫。

いや、今の私には、無個性コンプレックスを擁護する言葉は出てこないんですけど。

 

 あれ、

昔の私はどのようにして、無個性コンプレックスを何とかしていたんだろう。

 

甚だ不思議なんですけど、またじっくり考えて、どのように受け入れるかの策を練りたいと思います。

 

人生全部がコンプレックスだと豪語してしまうほど、色んなものがコンプレックスだらけの人間ですが、

 

コンプレックスをチャームポイントに、だなんて好きなYouTuberも言ってることですし、それすら愛せるようになればいいなと思います。

 

いつになるんだろう?

きっと、一生抱える課題でしょうね。

 

そんなところで、駅に着いたのでこれで終わりにしたいと思います。

 

 

いつも、読んでくださってありがとうございます。

どんな出逢い方であれ、暖かいご縁に感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肩書き「ただの人間」

こんにちは!

先日、まぶぃーず2周年イベントのトークセッションでお話してくれる子たちと打ち合わせをしました。

再出発というキーワードをどのように受け止めて考え、伝えていくか、というお話をしたのですが、打ち合わせの時点でハチャメチャに素晴らしかったです……!

真面目に聞きに来てほしいなぁと思いました!

 

世間話はさて置き、今日はどんな話をするかというと肩書きのようなものを持つと、そのままの自分を見てくれないよねーって話。世の常だろうけど。

 

「私」=「私」でしかないじゃん

 

ところで皆さん、私を何だとして認識しているでしょうか。

N高の子、ブログの子、まぶぃーずの子、不登校だった子、ヒキニートの子、おかしい子、マイプロの子、青春基地の子、ちーちゃん……。

色んな認識があるでしょう。色んな場所で関わってくださる方が多いですので。

 

でも最近、個人的にすごくその「○○な人」っていうレッテルというか肩書きのようなものに悩まされてたりします。

 

例えば自己紹介をする際に所属を言わないといけない時、「N高のちはるです。」と自己紹介しますよね。

そうするとN高というビッグワードによって、伝えたいと思ってるワードが全く伝わってくれてなかったり、

私として向き合ってくれる方がほとんど居なくなってしまうなぁと最近感じているわけです。

 

また、そのN高に転入した経緯を聞かれれば不登校の話をせざるを得ないので、ちょっと濁らせながらも話します。

ワードが出なくても、相手側がそう受け取ってしまった時点で、不登校の子というフィルターを貼られてしまいます。

すごく不登校というワード自体もイメージが先走りしすぎる印象で、勝手に可哀想だと決めつけられて「それはつらかったですね」「大変でしたね」と言われたり、距離置かれたりすることが多いです。

 

自分自身を知ってもらう上で、所属や肩書きのようなものをつけることはイメージに残りやすくするという点で大事なことなのかもしれませんが、私はあまり好きではないんです。

 

私として生きていたい身とすれば、私として向き合ってくれる方が居ないのはすごく悲しいのです。

 

ただの人間になりたかったり……

 

多分、大学生になったり、大人になれば、自ずと肩書きで自己紹介する時がいずれ来ると思うのですが、

日常生活とか今生きているうちはただの人間として、アグレッシブかつユルユルと過ごしていたいと言うのが本音です。

 

不登校について関わるのがもう嫌ってわけではないけど、元不登校として不登校について関わる現場に立つのは「もういいかなぁ」と思ってます。

それなら、元不登校ってだけでは出来ないスキルを身につけて「ただの人間、私」として、誰かの力になりたいです。

 

このブログだって、未来のN高生や後輩たちの力や不登校だったり引きこもりだったりと似たような境遇で苦しんでいる人の力になってくれたら、それは本当に嬉しいことです。

でも、N高の人だからでも、不登校の子、引きこもりの子だから誰かの役に立つんじゃなくて、そういう経験がある「ただの人間、私」として力になりたいです。

 

やっぱり、肩書きやレッテルのフィルターを貼られてる状態で見られていると、私はそういう人間である事が求められてるのかと思うようになったり、やりたい事でも出来る幅が狭くなってしまう気がしています。

 

これからも人生を歩み続けていく中で、色んな出来事があるだろうし、いろんな肩書きもレッテルも背負ったり、経験を積んでいくことでしょう。

でも、いろんな経験がある、ただの人間として、自身の心が心地良いと感じる方向性でやりたい事をしたり、誰かの力になったりと、緩く生きていけたらとても幸せだなぁと感じます。

 

今も私のことを○○な人と思って、接してくれている方も多いと思うし、それも幸せなことですけどね!

 

これから、ただの人間として生きてくために色んなことを学んで、習得し活かしたいなぁと思いまーす!

 

それでは!!

 

心の選択を信じて生きる。

こんにちは、!

最近、私のこれまでについて、考えてたりブログに書いてみたりしてるのですが、こんな感情なんなんでしょうね笑

卒業式やら、入学式やらと人生の節目にビビっているのか、感傷にでも浸ってるのでしょうか。

 

月日というものは、あっという間に過ぎていくものですね。大切な思い出が多ければ多いほどあっという間。

 

昨日、学校で最後のテストがありました。

受験の前ギリギリまで仲の良かった友達、特進クラスにいた時の友達、写真同好会を設立した時の友達、色んな友達に出会いました。

別れる時は手を振って、「次は卒業式だね!」なんて言って。感慨深いものです。

 

そんな昨日の出来事も、私の昔の感傷浸りに拍車をかけているようですね。

 

今日は、「選択したことを後悔しないように生きよう」ってお話。

 

 

もう、生き方に自信を無くしたくない。

不登校になった。引きこもりになった。髪の毛がなくなった。皮膚が見せられないくらい酷くなった。odもした。頭の中で死がこびりついた。

でも、そこから抜け出したかったし、これ以上、私を殺して生きていたくないとずっと思ってた。

 

私を保ちながら、生きていく。

私らしい生き方を探っていく。

 

そう考えながら、いろんな経験をして、私の生き方について模索していたんじゃないかなと思います。

 

私が心地良いと思える心の形を探し、その形にハマる心の居場所を作り、心地良いと思える光がある道へ進んでいく。

 

それが今までだったのだと思います。

 

私の心にハマる居場所、道を見つけ、進むのにも、色んな壁があったし、辛いことも苦しいこともありました。

 

まぶぃーずを続けようとすれば、たくさんの人にバカにされたり、変な目で見られたりしました。両親とも数ヶ月、口を聞かない日も実はありました。

 

ライターという道に進むにも高校生や元不登校という所で壁を張られて、何十社以上も面接や会社訪問で渡り歩いて落とされ続けてました。

 

私自身のトラウマをどうやって乗り越えるのか、心に抱えている問題をどう解決するのか、そんな事を考えて心理の勉強をする時もありましたし、コーチングの勉強もその一環でした。

 

今も正直、抱えきれないほどたくさんの問題はあるし、乗り越えられていない部分も解決出来ていない部分もあります。

 

それでも、1つずつ解いていって前に進めたらいいと思って、人よりも遅いペースだけど歩こうと思ってます。

 

過去の出来事は捨てようとしても忘れようとしても、残ってしまうからこそ、認めてあげたいし愛してあげたい。

それが私の生き方に自信を持つ大きなステップだと信じてます。

 

どんな選択でも胸を張って生きよう。

この社会には、「これが一般的に幸せだ」と言われるスタンダードな生き方が存在してると思います。

そして皮肉なことに、どんな大人もそのレールに乗っかるように子ども達を導こうとするし、そのレールから外れれば、「可哀想だ」「社会から外れた奴」だという目で見ます。

 

でも、レールから外れることはよくある事、だから可哀想じゃないと思います。

 

むしろ、当たり前。

 

一般的に幸せだと言われる生き方(中退や退学をせず学生生活を送り、そのまま就職し継続的に収入を得る生き方)を送る人をストレーターと言うとすれば、今どきストレーター人生のレールに乗っていられる人は半分しかいないそうです。

 

そういうストレーター人生を生きている人は素晴らしいかもしれませんが、もう多数派ではないわけです。

 

なら、レールから外れても可哀想だなんて思わずに、自分自身が落ち着く幸せの形を求めて生きた方が良くない??

 

と思ったわけです。

 

だから、周りから「おかしい」「可哀想」だと言われても、私が私の心が心地良いと思える生き方だったらそれで良いんです。

 

周りから悲しいこと、辛辣なことを言われるより、自身が選択したことに後悔しながら生きていく方がよっぽど生きててつらいです。

 

どんな選択をしたとしても、後に引けません。だからこそ、選択したことに自信を持って生きてくしかないし、自身の心が選んだ選択肢を信じてあげることこそが良い生き方だと思います。

私はその方が誇りに思える生き方なんじゃないかと考えているところです。

 

選択した先の未来を、幸せにするのは自分次第ですから!

 

まずは高校の卒業という節目を大事に、そこから前を向いていきたいと思います。

 

それでは〜!

 

(書くのに3日くらいかかって時系列とかあやふや笑)