ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

甲冑じゃなくて、柔らかな布を。

こんにちは!ちはるです。

今日は毎月1回放送される、ヒカリテラスラジオ(風見しーちゃんのラジオ)の収録に行ってきました。

しーちゃんのラジオにお世話になってもうだいぶ時間が経ちますね。ヒカリテラスを立ち上げるってなったときにいただいた大きなチャンスの1つがこのラジオでした。

今も話すのは、本当に慣れないけど、届けたいこと、話したいことが、自分たちの声で発信できる媒体に出会えたことはとても大きいと思います。

 

今月は第3日曜の19時からなので、6月16日(日)19時からになります。しーちゃんのお誕生日、しーちゃんの歌についてお話ししたので、ぜひ聴いてみてくださいね♡

 

そして、この前の土日はとても色んな人と会って、色んなお話をしてきました。特に、社会にまつわる様々な問題や生きづらさに関してのお話。

 

生き方も考えの価値観も様々な人のお話を聞くのはとても楽しいし、勉強になります。

私は普段、自分だけの世界で思考し、価値観を深めていくことが多いので、その思考や価値観をアウトプットする機会に恵まれていませんでした。

 

それもあってか、とても新鮮に感じられたし、人と価値観や思考をシェアする、深い話やディスカッションみたいなものをすることがいかに大事がわかったような気がしました。

 

今日はそんな話をして感じた、人と人の間に生まれるコミュニケーションにおいての鎧や甲冑のお話。

 

大人になるにつれて、臆病になるものだ。

最近思うのは、歳を重ねれば重ねるほど、人間で臆病になっていくんじゃないかってこと。

 

私たちは、まっさらで何もついていない裸の状態で生まれてきました。それは肉体的な意味でも精神的な意味でも。

そこから、愛情や言語、社会のマナー、生き方など色んなところで色んなことを吸収し成長してきました。

もちろん、どんな人間も100%良い状態で成長するわけではありません。

そして、産まれて間もないまっさらな裸の状態から、強い個性を持って産まれてくる人もいて、その個性すら傷に見えたり、その個性によって傷つけられたりします。

 

吸収の段階で必要な愛情や教養を受けることができなかったり、その他の心無い何かによって傷つけられたり、心が殺されたり、、そうやって私たちは社会を鮮明に見えるくらいに成長するのと同時にまっさらな裸は薄汚れたり、傷ついたりしていくんだと思います。

 

だから、私たちはそんな薄汚れて、傷ついた裸の自分自身を醜く感じるし、恐怖すら覚える。

 

そんな姿を見せることに怯えて、私たちは大人になっていくにつれて、鎧や甲冑を着続けていくんじゃないかって。

 

薄汚れて、傷だらけの自分を、きっと周りは愛してくれない。

そして、きっと周りや、社会をどれだけ探しても、存在を受け入れ、存在を認めてくれる居場所はないんだ。って。

 

今の人間関係はどこか希薄です。

それはきっと、傷つけられる怖さに怯え続けて、鎧や甲冑を着ていても、裸でぶつかり合わなくても、存在を認めてくれない関係性でも、どことなく生きていけるからです。

 

誰とでも繋がれるようになった反面、気軽に疎遠になることも容易になったからです。

 

こういった人間関係って、実は脆く、孤独を産みやすいのではないかなって、

このような人間関係がスタンダードとして存在しているのも「生きづらさ」と関係しているのではないかなって。

 

昔から考えとしてあったわけです。

 

甲冑を捨てて、生きる。

私たちは、産まれてからどのタイミングでかはさて置きながら、

傷をつけられ、薄汚れて、周りの目線に臆病になって、隠すように守るように甲冑や鎧を身に付けて生きています。

 

それは甲冑や鎧の大小は置いといても、みんな一緒だと思います。

どんな自信を持っている人でも、名声のある人でも、誰にも言われたくない晒されたくない何かを持っています。

 

人間って、完璧な姿がない生き物です。そして全く同じがない生き物です。

 

誰にでも、凄いところ、好きなところ、尊敬するところがあるように、嫌いなところ、苦手なところだってあるものです。

 

それが当たり前。だって人間はいびつになるように作られているから。

 

人間と人間のでこぼこがパズルのピースのように、受け入れ合い、認め合い、共存していくために、いびつに作られているのだと思います。

(こんなこと言ったら胡散臭いけど。)

 

でも人間って臆病だから、自分の傷や薄汚れた裸を守るために、見せないために、周りの人の傷や薄汚れた部分を嘲笑ってしまう…。それにまた怯えて、甲冑の上から甲冑を重ねていく…。

 

これが今の世の中だと思います。

 

自分を守るだけで、生きていくのが精一杯なんですよね。きっと。

 

自分だけで守り生きていくのが精一杯で、でも存在していいのか、生きていてもいいのか、分からなくて、気付いたら周りには人がいなくて。

 

そんな中、見た目だけでも強く凛々しく逞しく生きている人で溢れる社会です。

 

辛い人がいても手を差し伸べてあげられない、私も苦しくて手を差し伸べられる力がないから。

存在する価値がないと嘆いてても何も出来ない、私も存在する価値がないと思っているから。

 

何も出来ない、何もしてくれない、だから私は助けを求めらない、弱さを出せない。強くなければならない。

 

甲冑を付けるのは、私たちが臆病で弱いから。

 

でもその中に隠している、薄汚れて傷もついた身体は、私たちが繊細で優しいさまを表しているんだ、生きている証を表しているんだって思うのです。

 

だから、愛してあげてほしい。まずは私たち自身の醜い裸を。生きた証を。

 

最初に存在を愛してあげられるのは、きっと自分自身だって、きっと薄々わかってる。

 

愛してあげられたら、甲冑を脱ぎ捨てることも出来るのかもしれない。

周りも甲冑を脱ぎ捨てることが出来るかもしれない。

 

いつでも戦闘モードな甲冑姿ではなく、素顔が見えて柔らかい布を纏った私たちで関わりあえるかもしれない。

 

こーやっていつものようにウダウダと書きたいことを書き連ねていますが、

私はこういう社会を夢見ています。

 

いつも、どんなときも。

 

傷つけられた時も、ドロを被った時も、自己嫌悪になった時も、

最初は甲冑がなきゃって思うかもしれないけど、柔らかい布を纏える社会で生きたいと。

 

そして、甲冑を捨てることは弱さを見せることではなく、優しさと勇気を見せることだって信じていたいと。

 

いつものようにどうやって締めればいいかわからないけど、伝えたい気持ちを紡いでみました。

 

ニュアンスだけでも伝わってくれたら、幸せです。

 

 

 

 

 

 

「幸せに生きる」ってなんなんだ。

こんにちは!ちはるです。

 

ヒカリテラスの照らし隊を募集をはじめて、ヒカリテラスの運営をしっかりしはじめて、更に身が引き締まる思いでいたりします。

最初はひとりで始めたヒカリテラスだけど、とても心細かったけど、今も実は心細い気もするけど、「ヒカリテラスを大事なものにしていくぞ〜!!」とメラメラしていたりもします。

 

インターンも学校も忙しい日が続いているけど、たまに倒れそうな時もあるけど、スパイシーな日々を過ごせています。

 

今日は、私的に「幸せに生きる」ってなんだ?ってお話をば。

 

「何か夢とかあったりする?」

以前もブログにばっちり書いたのですが、やっぱり夢に関する質問はとても苦手です。

 

まぁでも、時期が時期ですし、希望に満ち溢れている大学一年生ですし、聞かれますよね()

 

先日、インターンでお世話になっているライターチームのリーダーのお兄さんに「何か夢とかあったりする?」と聞かれて、困ってアタフタしました。

 

夢に関する質問が苦手な理由のもう1つとして、野望とか夢とかに目が向かないくらいに、今でいっぱいだからっていうのが挙げられるかなと思います。

 

まともに高校を卒業して、大学生になって、メディアの世界でお仕事をさせてもらったり、いろんな経験をさせてもらっている今が夢心地すぎて。

 

今がもう既に夢のような気分なんですね、私。

 

ちゃんと生きてるし、生きてるって感覚も持てているし。

それすらが、夢のようだったりします。

 

そんな感じなので、

本当に答えられなくて、苦笑いで「幸せに生きるのが夢です!」なんて答えてしまったわけです。

 

本当は、「幸せに生きられたなぁと思いながら死ぬこと」なんて言おうとしたけど、さすがにドン引きされるなぁと思ってやめちゃいました笑

 

我ながらアバウトだなぁとか思いながら、私にとって「幸せに生きる」ってなんだろうと考え始めました。

 

幸せに生きる、人間らしく生きる

私が昔から念頭に置いているのは、人間らしく生きるというポイントです。

人間らしくというのは、私的には、自分の心から湧き出てくる感情みたいなニュアンスがあります。

 

だから私にとっての人間らしく生きるというのは、社会の色んな荒波に揉まれても、自分の中から湧き出てくる感情を殺すことなく大事に持ち続けながら生命を保つことだと考えています。

 

自分の感情を殺さないこと、

自分の感情を持ち、表現すること、

自分の感情を自分のアイデンティティとして守ること、

 

それらができることは、私にとって何にも代えがたい幸せなことです。

 

自分の感情を持ち表現することは、私にとっては、難しいことだけど素晴らしいことです。生きているという証を残せるから。

そして、自分の感情の揺らめきが自分のアイデンティティへと繋がっていくと思ってます。

 

でも、そんな大切な感情は、社会で生きていれば、荒波に揉まれてしまえば、簡単に自らの手とココロで殺せてしまうほど、繊細で脆いのです。

 

だから、感情って尊い。そして素晴らしいものだと思うのです。

 

私はそんな風に感情を紡ぎ、感情を守り、生きている証を残していけるような人間らしい生き方を送って、幸せに生きて死にたい。

 

これがきっと夢です。

 

別に凄いことをしたい訳でも、偉い人になりたい訳でも、社会的に名声が欲しい訳でも、成功したい訳でもなく、

ただのそこら辺の人でもいいから、人間らしく生きて、幸せに死ぬ。ただそれだけをしたい。

 

何になりたいか、何をやりたいかは、私にとってはどんな人生を送るか、どんな生き方をするかの1ページや手段にしかなりえないのです。

 

ただ、そういう風に生きたいと思ったら、私には社会の中の「生きづらさ」に弊害があり、何とかしなきゃ私の夢か叶わなくなってしまうので、私の夢を叶えるために、ヒカリテラスがあるのです。まぶぃーずもきっと一緒。

 

「社会のためだ〜」「国のためだ〜」って行動を起こすカッコイイ人や素晴らしい人とは違うんです。

そんな素晴らしく人間出来てないので、私。

 

あくまでも私のライフミッションを成功させるために私は今、「生きづらさ」というものに向き合ってます。

 

ついでに、社会ももっともっと良くなっていけばいいなと思ってますけどね。

 

 

 

ていう感じで、私的に考える幸せな生き方ってこんな感じですけど、皆さんはどうですか??

 

いろんな人の幸せな生き方を聞いてみたいなぁって思いました!

きっと一人ひとり、価値観が違って面白いんだろうなぁ。

 

それでは!明日は大学が一限からあるのでおやすみなさい〜‪( ´•౪•`)‬

 

 

大学にも慣れた頃、最近の話。

こんにちは!ちはるです。

 

ここ2年間くらい、日常のこと書くとか言ってる割に全然書いてないですよね。

私にとっては日常の1部だけど、感情とか哲学とか、学校、不登校とか生きづらさについて、そんなあたりばかり書き続けてる気がします。

(あ、そんなことない!たまに最初の世間話程度に書いてる!笑)

 

最近私を知った人も、随分前から私を知ってる人も、実際の私を知ってる人も、

実は私のこと、そんな知らないんじゃないかと思うわけでございます()

 

せいぜい、元不登校、ヒキニート、N高1期生、今は法学部の大学生ってくらい?

あとは、まぶぃーずやヒカリテラスって不思議なところで活動してるってくらい?

 

私も社会一般的な普通の女の子と同じように生きてるし、悩んでるし、楽しんでるってことを知ってもらいたいのと、

 

私自身が日常、最近のことをしたためておきたいので、笑

 

今回は最近の私について、どういう風に生きてるか、どんな日常なのか、書きたいなって思います()

 

お友達の話

N高を卒業してだいぶ和らいだと思った学校不信。思っている以上に手強くて、大学生になってもなお、学校に苦手意識を持ちながら生活を送っています。

 

でも、同じ学科のお友達が出来たことで、その苦手意識は少しずつ和らいでいるかなって思います。

 

必修の授業は必ず一緒だし、同じ授業のときは安心する。気にかけてくれたり、心配してくれたり、笑ってくれたり、私はとても嬉しい。

 

今は優しい(あと可愛い!)お友達とシンプルに平和に学校生活を送れてます。

 

(いつもありがとう.....!)

 

でも、私ばっかり幸せな気持ちにさせてもらっているのではないか、めっちゃ気を使わせているのではないか、みんかは私といて楽しいのか、正直不安。

 

私自身、人付き合いがあまり得意ではないので、嫌な気持ちにさせてないか、つまらない気持ちにさせてないか、ちょっと伺いながら過ごしてます。

 

みんなすごく優しくて、まるでホットミルク、ホットココア(マシュマロ入り)のような心の持ち主なので、その優しさに漬け込んでしまわないかも不安。

 

そんなことを思うくらいに、ステキな人とお友達になれたことが大学生活で一番嬉しいことかな。

 

あ、でも、その他の人とは全くもって関わり持ててないので(コミュ障発揮しすぎている笑)いい加減、少なくとも同じクラスの人の名前と顔は一致できるようにしたいものです()

 

メンタル弱いのは相変わらず、でも充実してる!

そんな感じで、割と幸せに平和に学校生活を送れているわけでございますが、

メンタルめちゃくちゃ弱いのは成長していないようです。

 

最近、大きな音や怒鳴り声、荒らげた声を聞くと、手が震えてしまうようになりました。それを思い出すだけでも、心がピリピリします。

だから実は声を荒らげたことのある先生の授業が怖いんですよね。

昔とは違って、ちゃんと授業に出るようにはしていますが、それまでは学校の校門前で駄々をこねる不登校生のようです。(ご迷惑おかけしてます。)

 

あと、やっぱり人の感情に敏感なのも変わらないです。

私はいつも2時間弱かけて通学しているのですが満員電車の時、人の感情やその他もろもろメンタルの部分を遮断するためにイヤホンが欠かせません。

でも、大人数の授業ではイヤホンを付けたり、目を閉じたりするのは、先生に失礼にあたるだろうし、せっかくの授業がもったいなくて出来ないので、人の感情やメンタルの影響をめちゃくちゃ受けて授業を受けてたりします。

 

必修の時は友達と一緒に授業を受けているので、感情やメンタルの影響も少なくて安心して受けられますが。

 

他にも日々、いろんな辛いこととか苦しいことに遭遇しては、心がポキポキ折れて、なんだかんだ立ち上がって、歩いてみるみたいな感じで生きてます。

 

そんな毎日ですが、自分の感情が動いていることが毎日のように分かるので、ある意味、いい意味で、「生きてるなぁ」と感じられています。

 

あとは、インターンでも色んな人と関わることが増えて、最近とても緊張して心がプルプル震えている毎日が続いています。

でも、本当に本当にメディアに関わることをしていきたいと思っていたからこそ、必死に喰らい付いていきたいとも思ってます。まだまだペーペーなので!!

 

それにインターンとして働いて得た自分のお金っていうところに、少し安心感を持てています。

 

高校2年の頃もライターのお仕事はさせてもらっていたとはいえ、高校3年は全くもってバイトも仕事もしていないので、親のスネをかじり尽くす生活をしていたのです。

まぶぃーずだったり、ヒカリテラスだったりで活動する時の交通費も、友達と遊ぶ時のお金も、両親が負担してくれていたので、

「親に甘え過ぎだ」「親が甘やかしてくれる」「自分の力では何も出来ないくせに」

みたいなイメージを持たれても何も言えない状況でした。

 

でも大学生になって、自分のお金で活動したり、自分のお金で好きなことをしたり、好きなものを買ったり、経験を買ったりすることができた現状に今は安心しています。

 

活動に関しては、団体内で必要経費を賄えるようなお金を回す仕組みを考えなくてはいけないのですが、、、!

 

インターンとして働いていただいたお給料で、最近は髪を切りにいったり、大好きなボカロPさんのCDを買ったり、憧れだったブランドのお洋服を買いに行ったりしました。

 

 

 

とても楽しいです。毎日。

 

色んなことがあるけど、辛いこともあるけど、でもすごくありえないくらいに充実してます。

 

すごく感傷に浸りたいのか、「自分を信じてきてよかった」って言いたい気分です。

 

 

そんな今日は、不登校になる前、虐められていた時の私に、きっかけや勇気を与えてくれたスゴい人とお話をしてきます。

とても緊張しているけど、せっかくのチャンスをいただいたので、150%の力で味わってきます。

 

 

それではっ!!!!

 

 

 

 

「やらない」と「できない」は違うもの。

こんにちは!ちはるです。

 

つい先日、ものすご~くラッキーな出来事がありました。

公な場所で話せる内容ではないのでブログでは憚らせてもらいますが、

私がブログを始めてなければ、皆さんが読んでくださらなければ、周りの人が私にチャンスをくださらなければ、このラッキーな出来事はなかったと思います。

 

改めて私は、今こうして好きなことをしてパッションを感じながらも、心穏やかに生きていられること、そしてたくさんのチャンスに恵まれていることを幸せに感じています。

 

まだまだ未熟ですが、いつもブログを通して見守り、応援してくださる皆さんに感謝してもしきれません。涙 いつもありがとうございます。

 

最近は「やらない」と「できない」の違いについて考えているので、そのお話をば。

 

不登校にも色々あるよね。

最近、また不登校の話題がでてきました。「不登校は不幸じゃない」ってYoutuberの男の子が言っているやつ。

私、あんまり気乗りしません。

「子どものくせに何言ってるんだ」「社会を甘く見すぎだ」とか思っているわけでは一切なく、何故だか、すごく心苦しくて、悲しくて。

言っていることも正しいし、やっていることも素晴らしいことは重々理解しているつもりです。いや、小学生の少年が賛否両論で騒がれててもなお、活動しているのはすごいと思います。

 

でも、彼が不登校の代表として公の場に出ることについて、懐疑的な目線で見ています。

 

というのも、彼は「学校に行きたくないから学校に行かない」という選択をしただけなんですね。私が勝手に言うところの「非登校」の部類なんです。

非登校の子は最近とても増えてきました。学校や学校での学習に違和感を持ったり、違和感から苦痛を抱えたり、そういう子も増えてきてもおかしくはない時代になってきました。

 

でも世の中には、「学校に行きたくても行けないから、学校に行けていない」という不登校の人も数多く存在しているのも事実です。

 

だから、彼だけを不登校の代表としてメディアに出ることに対して、ちょっとしたゾワゾワそた感情や、危険だなぁと思って見ていました。

 

私の不登校経験は、不登校と非登校を行き来した感じなので、どちらが不登校として正しいとか言うつもりは全くないけど、

 

もし仮に、「学校に行きたくても行けない」不登校の子が彼の言葉を何かを通して見聞きした場合、反感を持つだろうし、傷つくことだってあるんじゃないかなとも思うし、彼みたいな子のほとんどが不登校だと思われた時のことを考えて、怖い思いをすることだって無くはないと思っています。

 

それに非登校タイプ(わかりやすくタイプ化するのを許してw)は未だに一般社会では受け入れ難い存在です。

今は教育法が変わって学校外の教育も受け入れやすくなっていましたが、あまり認知はされていませんし、昔の固定概念のまま「学校に行かない=サボり」と思う方も多いのです。

 

私は、「学校に行きたくても行けない」不登校から、「学校に行くのを諦めて、学校外での学習にシフトした」非登校になりました。

だから、どちらも社会的に苦しい思いを持っているのもよくわかるし、反発して発信する行動に出たのもすごいことだと思いました。

 

でも、「やらない選択をする」のと「やろうとしてもできない」はあまりにも根本的な問題が違いすぎるからこそ、彼が不登校の代表としてメディアに出てしまうことが実は怖かったのです。

 

「やらない」と「できない」は根本が違うよね。

「やらない」と「できない」は、行動的に見たり、表面的には同じことのように感じますが、私は根っこの部分が全く違うものだと思います。

 

「やらない」は自らが決断をして、故意的にやらないのに対して、「できない」は「やろう」と思っていても、何らかが邪魔をして達成できないのです。

つまり、表面的には同じように見えても、根本が違うから、考え方もアプローチ方法も全然違うわけです。

 

だから、不登校の子、非登校の子に同じように「学校に行きたくなかったら、学校に行かなくてもいい」と言っても、非登校の子には共感、賛同を得られますが、不登校の子からすれば、「諦めろ」と言われたような気がしたり、苦しんだり、反感を買ってしまいます。

 

それと同じように、不登校の子、非登校の子、それぞれ同じように「学校復帰しよう」とアプローチをしても、不登校の子は現状が回復すれば学校復帰できる可能性はありますが、非登校の子は「自分の考えを認められなかった」と嫌な気持ちになったり、受け入れられなかった苦しみを抱くと思います。

 

とどのつまり、私が今日お話したかったのは、

某Youtuberの彼にしても、メディアにしても、社会の大人にしても、「やらない」と「できない」は似て非なるものなので、一緒くたにまとめてアプローチをかければ苦しむ人は出てくるよ~って話をしたかったのです。

また、色んな形の不登校が存在しているから、そのうちの1タイプを不登校の代表みたいにメディアに出すと、そりゃ叩かれるし、荒れるよねって。

 

でも一番は社会に生きる人は、不登校をはじめとする「生きづらさ」に目を向けて、少しでも考えてくれること。

 

そんな暖かい社会になれば、こんがらがってる糸も、ちょっと解れていってくれると思っています。

 

だから、ヒカリテラス。頑張ろうって思いました。!!

 

P.S.

ヒカリテラスで今、記事を書いてくれる人を募集しています。「生きづらさ」について伝えたい思いがある人、ヒカリテラスで一緒に光を照らしていきましょう✨

https://hikari-terrace.themedia.jp/posts/4273543

私たちが持つ「学ぶ権利」

こんにちは!大学に入学して3週間ほど経ちました。時と言うものは早いですね。ついさっきまで、コスプレチックな制服を着て楽しんでたというのに。

 

私は大学に入って、とある資格を取ろうと思って「教育」についての科目を取って講義を受けてます。(この授業めっちゃ楽しいのですよ。興味深いって意味で。)

 

そして、この授業で「学校教育は今の日本にとって完璧なのか」「学校外での学び」についてを考えながら受けてます。

やっぱり「不登校」「生きづらさ」を考えるなら、教育という場所からの視点も持っておきたいと思ってるのでね。

 

こんなこと書いてると、「真面目」だとか「気持ち悪い」とかって笑われるかな笑

 

ちょっと怯えながらも、書いてみます。

 

今回、この記事で書きたいのは義務教育学習権。つまり、私たちが持ってるのは権利であるのか、義務であるのか、について。

 

学校に行かずとも、学べた不登校時代

私の不登校時代は、実はほかの不登校の子よりも格段に充実した学びで満ちていました。

 

なぜなら、不登校中でも自宅学習や地元の進学塾などで学ぶ機会が確保してあり、普通に学校に通う子と同等の学力を身につけることができ、中学高校進学時も困ることがあまりなかったからです。

 

もちろん、勉強なんか手につかなくて自暴自棄になった時期になったり、荒れた時期もあったけど、学ぶ権利が奪われることも、学校での教育を義務教育として強要されることもありませんでした。

 

今は教育法が変化し、学校外(フリースクールやホームエデュケーションなど)での学びが受け入れられるようになりましたが、私が不登校だった時は、学校教育が全ての状況で、その他の学びの機会は受けいけられることがほとんど無い状態でした。

 

それなのになぜ??

 

きっとそれは、両親や理解のある大人が教育権や学習権という権利を当時の私に教えてくれて、その権利の基で私の学習環境が守られていることを主張してくれていたからです。

 

そんな環境下で過ごせていたことが幸せなことだったんだと思うようになってから、教育権学習権について独学で調べ、考えるようになりました。

 

その結果、

義務教育というものは、子どもの周りにいる大人(親、教員、教育委員会)が、子どもに教育を受けさせる義務、教育を受けるよう促す義務があるということ。

そして学習権は、私たち(子ども大人関わらず)が持つ積極的に学びを得ることができる権利であるということ。そして守られるべき基本的人権のひとつであるということ。

と私は考えたわけです。(今日までの結論。)

 

今日の講義で、第4回ユネスコ成人教育国際会議で発表された「学習権宣言」に触れたときに、今日この話をブログに書こうと決めてました。笑

 

基本的人権学習権が含まれてるということは、学校に行かないだけで学ぶ権利が奪われることはあってはならないですし、

義務教育は、私たちが受ける義務ではなく、周りの大人が受けるように促す義務であるので、学校に行かないことが、法律違反になることはないのです。

 

学校での机上の勉強だけが「学び」?

最近すごく思うのは、学校で受ける国語や数学などの○×がハッキリ付くような机上の勉強だけが学びなのか?ということ。

 

学校で受けることのない心理について、いろんな哲学、生きづらさについて、それらについて考え、調べ、理解を深めること

多種多様な人間と関わり、いろんな価値観を知り知識として蓄えること

 

これらは確かに学校で学ぶことは無いけど、「学び」ですよね。

 

何を持って「学び」を定義するかは、価値観によって変わってくるだろうけど、私が講義や自らで考えた結果をもって定義してみると、

人間が存在するあらゆる場面、そして人生の中で行われる、人格形成に作用される知識を身に着けたり、発見したりすること。

かなと。

 

学校でできるような机上の勉強だけが学びではないし、それに固執する必要はないと思いました。もちろん、学校でできるような机上の勉強だって学びの一つだからやりたいならドンドンやったらとても良いと思います!(当時の現実逃避が勉強だった人。笑)

 

このブログを通して私が言いたいのは、

学びたい、勉強したいと思ってる不登校や引きこもりの人、いっぱい学んで勉強してほしい。

それが机上の勉強であろうと、そうでなかろうと。身に着けた学力も知識も生きていく上で絶対に強い力になります。

 

私は学校に行かなかった間、心理学を勉強して、社会に見え隠れする生きづらさについて強い関心を持ちました。そのおかげで社会や政治に目を向けたり、教育について考えたり、憲法を勉強してみたり、問題解決のためにコーチングを学んでみたりしています。

それらの学び、勉強が高校受験、大学受験に結びつくことは全くなかったけど、明日明後日と生きていく活力へと繋がっていきました。

 

だから、学びや教育って生きる活力になってくれるんじゃないかなって密かに考えてたりもします。

 

そんな人生に意味を与えるような、生きる活力になるような学びの機会が増えてほしいなぁと思いながら、今日はこれで終わりにしたいなぁと思います!

 

それでは~!!

 

 

 

 

 

 

「将来の夢はなんですか?」

さくっと書きたい気分なので、早速本題なのですが、小学校に入ってから幾度となく将来や進路の希望調査みたいなのを聞かれることが多いと思います。

特にこの質問が多い。

「将来の夢はなんですか?」

私、この質問苦手なんです。将来の夢が無いわけでも、未来に希望がない訳でもないんですが。

 

こういった類いの質問って職業だけを求められてるケースが多いんですよね。

 

大学の進路調査、コース選択でまた苦手をぶり返しました。

 

AOの時は、将来性がウンヌンカンヌンとか言ってたので、将来の展望を語りましたが、本当は政治を勉強したいがために今の大学に入りました。

 

公務員になりたいわけでも、学校の先生になりたいわけでも、政治家になりたいわけでもありません。

 

資格の勉強もしていますが、その資格が必要な職業に就きたいわけでもありません。

 

こんなこと言ったら、周りの人から変な顔で見られそうな気もしますがそうなんです。

 

ただ、勉強したかった。

それだけで大学に入って何がダメなんだろう、最近はそう思ってます。

 

やりたい事はいっぱいあるし、私の手で解決し見届けたいなと思う事もいっぱいあるし、それらに大学での学びは大きく影響します。

 

でも、将来の職業に繋がるかと言えば繋がらないかもしれない。だから将来のために入ったというより、単なる興味で入った大学でした。

 

だから、毎回の講義は楽しいし、今の生活はちょっとハードかなと思う反面、今まで以上に充実もしています。

ただ、周りとの感情やメラメラ度の差についていけなくて若干の心苦しさや違和感を感じます。

 

「興味無いけど役立つから」「就職に便利だから」「大学でとけば就職は余裕だから」「大学でないと就職先ないから」

 

そんなオーラを感じてる、最近です。多くの人が感じていることでしょうけど。

 

 

大人になり、社会に出たら、働き、国のために税金を払うのですよ。

 

そんな風に教えられたけど、働き方も、お金のもらい方も、誰かの当たり前に縛られて、苦しさを感じながらなんて嫌だし、私がやりたいこと、見届けたいと思ってる分野で社会に貢献したい。

 

社会一般で「働く」ということも、社会に貢献する大人としての「生き方」「ライフスタイル」がどんなものかなんて分からないけど、

 

社会に貢献する人間として、社会に出る前に分かっておきたいし、自らライフスタイルを作っていけたらもっといい。

 

何も知らないまま、誰かの当たり前に流されるまま、これ以上自分の心を傷つけて、苦しめて、生きていくのはたくさんだ。

 

生きづらさを感じているのは、生き方が合っていないからかもしれないから。

 

そんな風に考え始めた頃から、そういう生き方をしたいと思っていました。言語化出来るようになったのはつい最近の事だけども。

 

そのために社会の仕組みとか、憲法とか、政治の歴史とか、勉強してるわけです。

 

この世の中で生きていく中で、社会の枠組みである法律とか政治を学べばきっと役立つ。

今、生きづらさを抱えながら生きてる人の強い盾と勇気に繋がる光になる。

 

だから、この大学4年間でいっぱい勉強したり、いろんな知識を脳内に刻み尽くしたい。

 

そんなメラメラモードで日々大学生活を送っています。

 

本当に頭から火を吹きそうなくらい、毎日忙しい。今まで毎日外に出る生活なんて送ったことなかったから。

 

でも、大学で日々新しいことを学んで、先生の言葉から色んなことを吸収して、友達と毎日笑って、インターンとして働く中で、また新しいことを発見する。そんな日々がありえないくらいに楽しいのです。

 

生きててよかった。笑

 

「将来の夢はなんですか?」っていう質問にはまだまだ答えられそうにないどころか、進路希望とかも考えるの難しいけど、

やりたいことを将来の夢として、言語化できるように人生勉強していきたいです。

 

 

※この記事、多分ずっと前に下書きに残してあったのを書き直していたので、だいぶグダグダです。

それでも最後まで読んでくださってありがとうございます❤

 

 

 

 

「東京」という居場所を手にしたら。

こんにちは!入学式が終わり、晴れて大学生です!(๑´ლ`๑)フフ♡

 

東京の大学に通うので、通学定期という夢のカードを手に入れました笑 これで東京に通えます。笑

すごく感慨深くて、少し昔、東京に逃げるように行っていた時期を思い出しました。

 

今日はそんな昔の話をば。

 

地元が怖い田舎もの。

地元にあまり良い思い出がなくて、引きこもりだった時期。

知り合いに会うのが怖くて、地元の空気すら怖くて、外に出ても「私はここの人じゃない」と暗示をかけないと怖くて、家にトンボ帰りする日もありました。

 

そんな時に手にした地元以外の地域に行けるチャンス。

 

青春基地の人に会うために新宿まで向かうことになりました。

 

電車にも10分しか乗ったことない、県外になんて行ったことないこれまでの私にとっては、有り得ないくらいに大きなチャンスでした。

 

駅までも怖くて歩けなかったのに、その日だけは足も心も清々しく軽く思えました。

 

電車の窓から見える地元の田園風景から混沌とした都会のビルの風景に変わっていく一時、一時が新鮮で心をときめかせたこと。

 

県境にある大きな橋を通った時に見えた、川の細かい波や、反射する太陽の光、澄んだ青い空に感動したこと。

 

多分いつまでも、忘れられないと思います。

 

これが、井の中の蛙が大海のほんの少しを知った瞬間。

地元の中や、中を経由しなきゃ、コミュニティがないと思っていた私にとって、大きな希望でした。

 

地元にいるのが苦しくても、ここに来れば、その苦しみから逃げられる。

だから、転校する前、した後も含めた高校3年間は、同じ県内に通う高校生の何十倍も東京に逃げるように通いました。

 

でも、お金はないので、何かにつけて用事を作ったり、何もせずにひたすらずっと歩き回ったり、人間観察をしたり、そんな日々。

 

それでも、私の中ではたくさんの発見があり、変わりたい自分になるためのアイデアを沢山もらいました。

 

「東京」が居場所になり変わったこと

これまで居場所について、再三語ったことがあると思いますが、東京も私にとっては居場所のひとつでした。

 

誰か味方がいるわけでも、場所が確保されてる訳でも無いけど、東京にいけば、何故か安心できて、たくさんのインスピレーションを貰うことができました。

 

特に東京で過ごしたことで、いろんな価値観や特徴をもった一人ひとりが共存し、同じ環境で生きているところを、その環境にいることで実際に感じることができたことは、私にとって大きな出来事であり収穫でした。

 

また誰にも干渉されることなく、やりたいことができ、私の考えたいことを考え、私の意見を大切にできる環境で過ごせたことで、私のままで居ていいと思えるようなりました。

 

そんな環境で過ごしたことで、一人ひとりが違うことが当たり前だからこそ、一人ひとりを尊重し合うことが大事だという思考を手に入れました。

 

協調性やみんなと一緒、同じレベルを求められる学校の空気感に置いていかれた私にとって、その思考は少しの希望と自信に繋がりました。

 

これらは、東京で出会った人たちが温かかったから、そしてたくさんのチャンスと出逢う機会が多かったからだと思います。全てはラッキーで、運が良かっただけに過ぎませんが。

 

きっと東京が居場所にならなかったら、今こうやってブログを書き、こんなことを書くこともなかったし、地元への思いが出てくることも、大学生になることもなかったはずです。

 

だから、このチャンスから得たたくさんのモノを確実に次に繋げていきたいし、私が出来ることで昔の私のように生きづらさを持ち、引きこもっている誰かのためになることがしたいんです。

 

今ある環境でどんな風に私がもらったチャンスを還元できるのか、まだまだ未知数ではありますが、考えて考えて挑戦していきたいです。

 

 

さて、今日は大学で初めての授業の日。すごくドキドキしてますが、楽しんできますね!

(時系列おかしい、笑)

 

それでは〜(*/▽\*)キャッ