上手に生きようと思ったり。
おはようございます!電車の中でポチポチ書いてます(ふふふ)
最近は、太宰治並の感情ジェットコースター気質が爆発してまして、毎日いろんな感情を行ったり来たりしてます。
この時期は気圧のせいか、感情の壁が薄くて大変です。笑
昨日は全然悲しくないけど、涙がポロポロしちゃってデトックスみたいな感じがしました()
まぁ、言っても理解されないんですけど。笑
今日はそんなこんなで「上手に生きたいなぁ」と思った話をば。
ひしひし感じる「生きづらさ」
私、傍から見たら、割と上手に生きてるというか、割と人生上手くいってるように見えてるんだろうなって思うのですが、そんな人から見たら何が?って思うかもなんですが、
最近、ひしひしと社会で生きてる中で「生きづらさ」を感じます。
ポツポツと体調が悪くなったり、他の人の感情を感じ取りやすくなったり、感受性が暴走し始めたり、
特にこれといって原因は見当たらないけど、心苦しい日々を送ってます。
何が「生きづらさ」を感じさせているんだろうって、欲張りなのかなって思っちゃったりして、色々と考えてしまう今日この頃です。
新しいコミュニティに属したというのもあるかもしれないなぁ。
人付き合いが増えたというのも可能性にあるし、単純に心が疲れているのかもしれない……。
元々、人付き合いが少なかったり、居心地良すぎるコミュニティに属していたので、ギャップが凄いのかもしれませんね。
色々考えてたんですけど、結局のところ、私は単純に生きるのが不器用すぎるという結論に至りました。
上手な生き方が何かは分からないけど、少なくともお世辞にも上手な生き方とは言えないので。きっとそうなんだと思うんですね。
自分が誘発した感情じゃなく、他人から触発された感情に一喜一憂してしまったり
本の主人公の感情に持ってかれて、憂鬱な感情で過ごしてしまったり
感情の切り替えがとてつもなくスローリーだったり
生きるのに無駄が多すぎるんだと思います。
こういうもの変なのがある、しかも生きていくのに邪魔になる、私自身も発見して理解するのにとてつもなく時間がかかったし、だからこそ、社会に受け入れられないのではって、理解されないのではって、怯えてるなぁって感じてます。
生きづらさは、社会に対する不安や怯え、恐怖心からはじまる。特に理解と共感が乏しいコミュニティになるほど。
そんな風に生きづらさについて考えてた時期もあったなぁとふと思い返したりしました。
上手に生きたいって思ってる。
辛いことに慣れる、苦しいことに慣れるって一番危険だと思ってます。
かく言う私も理解されないことに慣れてしまってる節はあって、信憑性の欠片もないんですけど。
深刻化したいじめとかと似たようなイメージで、いじめられることに慣れてしまうと、自分が悪いと卑下するようになったり、信じられないことや信用出来ないことが当たり前になるので、信じることが出来なくなったり。頼れなくなってしまうのと同じように危ない…気がする。
そう考えたら、私が生きている中で「生きづらさ」を感じていられるのは、正常に心が動いている証だからまだいいのかななんて思ったり。
楽観的に考えたらそうなんですけど、いつまでも「生きづらさ」を抱えたまま、生きて死んでくなんて真っ平御免だし、なんか早死しそう…()
なんとか「生きづらさ」を軽減しようと努力はしてみてはいて、
理解してもらえるようにまずは自己開示してみたり、
自分自身の「生きづらさ」が何なのか調べてみたり、
感情を自分のものと他人のものと区別が着くように香水を付けたり、イヤホンを付けたり、
やっぱり、周りと比べて、格段に生きるのが不器用だから、その分、工夫をして頑張らないとって思うわけです。
どうしたら、「生きづらさ」の苦しみから脱却出来るんだろうって日夜考えて、挑戦して、失敗しての繰り返しで。
最近は、とても空回りしている気分です。
この前、すごく困らせてしまって、心が痛くなりました。
あぁぁ、ごめんなさい。。。ってすごく思った。言わなきゃよかった、我慢すればよかった、ってすごく思った。
私のことなんか、押し殺しちゃえばよかったって、また仮面被っちゃえばよかったって、何度も何度も何度も思った。
どうして周りの人は、他人と柔軟に形を変えて、溶け込むように生きていけるのに、上手に生きているのに、
私はこんなに生きるのが下手くそなんだろうって。
すごく生きていることに自信が無くなりました。それでも、悔しいから生きるわけなんですが。
なんでこんなに上手に生きられないの!!!って自分に呆れて、泣きながら帰りました()
悔しくて、悲しくて、もういっそ虚しくて。
もっと私の心にフィットする生き方と、社会との向き合い方を研究しようと思いました。
不器用すぎる生き方だけど、いつかは上手に生きられるようになりたい。
今日は昨日より、明日は今日より、もっと上手に、もっと幸せに、生きたい。
毎日、「明日は上手に生きられますように。笑って生きられますように。」って願いながら、生き方を研究して生きています。
まだまだ長い道のりだけど、ちょっとずつ生きていくのが上手になればいいなぁ。
好きな見た目で、好きな私で生きていく。
こんにちは!電車に揺られて家に帰還している最中のちはるです。
やっぱり言葉を紡ぐのは落ち着きますね、好きなことの一つだし、私として生きてる心地がちょっとします。
最近は、授業中に先生たちがふと口に出すステキな言葉をノートに書き留めるのが好きです。
実は記憶力がとても乏しく(単純記憶とか)、覚える歴史系の授業は得意ではないのですが、政治史の先生の言葉のセンスが好きで、授業に出るのが少しだけ楽しくなりました。
あとは私の関心分野にぴったりハマる憲法の先生の言葉(というよりお話)も好きで、割と頑張って通ってたりしてます。
今日は、この前、憲法の先生が話していた内容から私が思ったこととかウダウダ書いていけたらなぁと思います。
# KuToo
この前、憲法の授業の冒頭に話題に上がったキーワードです。
ネットニュースを見たり、Twitterから流れてきたり、よく目にしていたワードだし、私の中でも興味や関心のある内容だったので、その話から感じたことや思ったことをノートに書き込んでいました。
# KuTooと言うのは、就活や仕事で、女性にヒールのある靴を強要するのはおかしい、みたいな話で。(多分そう)
そこから、その授業では、女性らしさや男性らしさってなんだろう、そのらしさを自らが表現したいと思って身にまとっているなら良いけど、強要されるのはきっと違うよね、みたいな話をしたんですね。(多分)
元々、ヒールのある靴、特にハイヒールは「女性が一人では生きられない、男性に守られなければ生きていけない生き物である」とイメージさせるように作られた靴だって話を聞いたことがありました。
だからハイヒールって歩きやすいように作られていないんですね。重心がつま先に集中するせいで足元が不安定ですし、履き続けていたら足の骨格が変形したりもします。
それで、ハイヒールを履くことを就活やフォーマルな場でのマナーにすることは、一人では生きていけないようなか弱い女性らしさや女性であることを強要していることに繋がるのでは?って思ったり思わなかったり。
そんなこと言っても、ハイヒールが好きな人や、女性らしいガーリーやフェミニンなファッションが好きな人は履き続けるんだろうなぁとも思うわけです。でもそれは全然OKですよね。?
この問題で、何が一番問題かって、女性が辛くて痛いハイヒールを履くことではなく、社会や見えないルールやマナーから、女性がハイヒールを履くことを強要されることや、女性がか弱い女性らしさを表現することを強要されることです。
だから、ハイヒールを履きたいなら履いたらいいし、それが男性でも女性でもいいし、履かなくてもいい。
ガーリーやフェミニン系のファッションだって、好きなら着たらいい、そのファッションが好きな理由が、女性らしさをアピールしたいでも、そうでなくても、好きなことに胸を張っていい。
でも女性は社会に女性らしさを表現したいから、オシャレをして、メイクをして、ハイヒールを履いているわけじゃないです。それが当たり前ではないです。
そして、女性だけじゃなく社会に生きる人全てが、好きな見た目で好きな私で生きていってもいいのです。
きっとこれを、人権で言うところの表現の自由と言うのですが(使ってみたがり)、好きなことを、自分自身で表現する自由だってあるんだって思います。
好きなものをまとえば、好きな私になれるはず
「何のために、好きなお洋服を着て、メイクをするの?」ってもし聞かれたら、私はきっとこう答えると思います。
「私を好きになって、自信を付けたいから。」
ファッションがマナーだとか、誰かのためとか、言う人もいるかもしれないけど。○○ウケとか雑誌とかで書かれるくらい、誰かのために感が強いけど。
私は、私が私自身を好きになるためにオシャレをするんだと思います。
メイクをすると「今日も頑張ろう!」って思えてメラメラ出来るし、可愛いお洋服を着れば、外に出るのが怖くても外に出られる。大きなチャンスに震えても好きなものを身にまとえば、チャンスを掴める?
それくらい、私に大きな影響を与えてくれるものだったりします。
好きなものを身にまとうことで、自ずとなりたい私や、好きな私へと変われるのです。
好きな私で生きることが、生きていく上で、安心になり、盾になり、力になるのです。
私は、高校生のときに女性向けのメディアでファッションやメイクなどの記事を書くライターをするくらい、可愛いものやオシャレというものが大好きでした。
いわゆる赤文字系と呼ばれるようなガーリーでフェミニンなファッションも、
柔らかいピンクブラウンのアイシャドウや、ぷるぷるなリップも大好きです。
初めて働いたお金で、コスメを買い、可愛いワンピースとバッグを買った時、胸がトキメキでいっぱいに溢れました。今でも忘れない。
そんなトキメキでいっぱいになったコスメでメイクをして、ワンピースとバッグを身にまとった時、好きな私で生きることに喜びを感じることが出来たんです。
好きな私で生きることは、私として生きるための勇気に繋がったのです。
それがいくら、外見から入っていたとしても。
好きなものが、可愛らしい女性らしさのある、一歩間違えたら「ぶりっ子」や「媚び売り」になりそうなものであっても。
それは誰かのためではなく、私のため。
私のためだけの社会で生き抜くための戦闘服だったわけです。
こんなにも自由にお洋服を身にまとえるのは、学生という身分だからなのかもしれませんが。
いつか、好きな見た目で、好きな私で生きてく、が増えていったらいいなぁなんて思いました。
女性らしさを強要されることなく、社会の当たり前を押し付けられることなく。
表現したい私を、好きなもので表現し、愛してあげられるようになったら、ステキですね。
それでは、おやすみなさい( *´꒳`*)
甲冑じゃなくて、柔らかな布を。
こんにちは!ちはるです。
今日は毎月1回放送される、ヒカリテラスラジオ(風見しーちゃんのラジオ)の収録に行ってきました。
しーちゃんのラジオにお世話になってもうだいぶ時間が経ちますね。ヒカリテラスを立ち上げるってなったときにいただいた大きなチャンスの1つがこのラジオでした。
今も話すのは、本当に慣れないけど、届けたいこと、話したいことが、自分たちの声で発信できる媒体に出会えたことはとても大きいと思います。
今月は第3日曜の19時からなので、6月16日(日)19時からになります。しーちゃんのお誕生日、しーちゃんの歌についてお話ししたので、ぜひ聴いてみてくださいね♡
そして、この前の土日はとても色んな人と会って、色んなお話をしてきました。特に、社会にまつわる様々な問題や生きづらさに関してのお話。
生き方も考えの価値観も様々な人のお話を聞くのはとても楽しいし、勉強になります。
私は普段、自分だけの世界で思考し、価値観を深めていくことが多いので、その思考や価値観をアウトプットする機会に恵まれていませんでした。
それもあってか、とても新鮮に感じられたし、人と価値観や思考をシェアする、深い話やディスカッションみたいなものをすることがいかに大事がわかったような気がしました。
今日はそんな話をして感じた、人と人の間に生まれるコミュニケーションにおいての鎧や甲冑のお話。
大人になるにつれて、臆病になるものだ。
最近思うのは、歳を重ねれば重ねるほど、人間で臆病になっていくんじゃないかってこと。
私たちは、まっさらで何もついていない裸の状態で生まれてきました。それは肉体的な意味でも精神的な意味でも。
そこから、愛情や言語、社会のマナー、生き方など色んなところで色んなことを吸収し成長してきました。
もちろん、どんな人間も100%良い状態で成長するわけではありません。
そして、産まれて間もないまっさらな裸の状態から、強い個性を持って産まれてくる人もいて、その個性すら傷に見えたり、その個性によって傷つけられたりします。
吸収の段階で必要な愛情や教養を受けることができなかったり、その他の心無い何かによって傷つけられたり、心が殺されたり、、そうやって私たちは社会を鮮明に見えるくらいに成長するのと同時にまっさらな裸は薄汚れたり、傷ついたりしていくんだと思います。
だから、私たちはそんな薄汚れて、傷ついた裸の自分自身を醜く感じるし、恐怖すら覚える。
そんな姿を見せることに怯えて、私たちは大人になっていくにつれて、鎧や甲冑を着続けていくんじゃないかって。
薄汚れて、傷だらけの自分を、きっと周りは愛してくれない。
そして、きっと周りや、社会をどれだけ探しても、存在を受け入れ、存在を認めてくれる居場所はないんだ。って。
今の人間関係はどこか希薄です。
それはきっと、傷つけられる怖さに怯え続けて、鎧や甲冑を着ていても、裸でぶつかり合わなくても、存在を認めてくれない関係性でも、どことなく生きていけるからです。
誰とでも繋がれるようになった反面、気軽に疎遠になることも容易になったからです。
こういった人間関係って、実は脆く、孤独を産みやすいのではないかなって、
このような人間関係がスタンダードとして存在しているのも「生きづらさ」と関係しているのではないかなって。
昔から考えとしてあったわけです。
甲冑を捨てて、生きる。
私たちは、産まれてからどのタイミングでかはさて置きながら、
傷をつけられ、薄汚れて、周りの目線に臆病になって、隠すように守るように甲冑や鎧を身に付けて生きています。
それは甲冑や鎧の大小は置いといても、みんな一緒だと思います。
どんな自信を持っている人でも、名声のある人でも、誰にも言われたくない晒されたくない何かを持っています。
人間って、完璧な姿がない生き物です。そして全く同じがない生き物です。
誰にでも、凄いところ、好きなところ、尊敬するところがあるように、嫌いなところ、苦手なところだってあるものです。
それが当たり前。だって人間はいびつになるように作られているから。
人間と人間のでこぼこがパズルのピースのように、受け入れ合い、認め合い、共存していくために、いびつに作られているのだと思います。
(こんなこと言ったら胡散臭いけど。)
でも人間って臆病だから、自分の傷や薄汚れた裸を守るために、見せないために、周りの人の傷や薄汚れた部分を嘲笑ってしまう…。それにまた怯えて、甲冑の上から甲冑を重ねていく…。
これが今の世の中だと思います。
自分を守るだけで、生きていくのが精一杯なんですよね。きっと。
自分だけで守り生きていくのが精一杯で、でも存在していいのか、生きていてもいいのか、分からなくて、気付いたら周りには人がいなくて。
そんな中、見た目だけでも強く凛々しく逞しく生きている人で溢れる社会です。
辛い人がいても手を差し伸べてあげられない、私も苦しくて手を差し伸べられる力がないから。
存在する価値がないと嘆いてても何も出来ない、私も存在する価値がないと思っているから。
何も出来ない、何もしてくれない、だから私は助けを求めらない、弱さを出せない。強くなければならない。
甲冑を付けるのは、私たちが臆病で弱いから。
でもその中に隠している、薄汚れて傷もついた身体は、私たちが繊細で優しいさまを表しているんだ、生きている証を表しているんだって思うのです。
だから、愛してあげてほしい。まずは私たち自身の醜い裸を。生きた証を。
最初に存在を愛してあげられるのは、きっと自分自身だって、きっと薄々わかってる。
愛してあげられたら、甲冑を脱ぎ捨てることも出来るのかもしれない。
周りも甲冑を脱ぎ捨てることが出来るかもしれない。
いつでも戦闘モードな甲冑姿ではなく、素顔が見えて柔らかい布を纏った私たちで関わりあえるかもしれない。
こーやっていつものようにウダウダと書きたいことを書き連ねていますが、
私はこういう社会を夢見ています。
いつも、どんなときも。
傷つけられた時も、ドロを被った時も、自己嫌悪になった時も、
最初は甲冑がなきゃって思うかもしれないけど、柔らかい布を纏える社会で生きたいと。
そして、甲冑を捨てることは弱さを見せることではなく、優しさと勇気を見せることだって信じていたいと。
いつものようにどうやって締めればいいかわからないけど、伝えたい気持ちを紡いでみました。
ニュアンスだけでも伝わってくれたら、幸せです。
「幸せに生きる」ってなんなんだ。
こんにちは!ちはるです。
ヒカリテラスの照らし隊を募集をはじめて、ヒカリテラスの運営をしっかりしはじめて、更に身が引き締まる思いでいたりします。
最初はひとりで始めたヒカリテラスだけど、とても心細かったけど、今も実は心細い気もするけど、「ヒカリテラスを大事なものにしていくぞ〜!!」とメラメラしていたりもします。
インターンも学校も忙しい日が続いているけど、たまに倒れそうな時もあるけど、スパイシーな日々を過ごせています。
今日は、私的に「幸せに生きる」ってなんだ?ってお話をば。
「何か夢とかあったりする?」
以前もブログにばっちり書いたのですが、やっぱり夢に関する質問はとても苦手です。
まぁでも、時期が時期ですし、希望に満ち溢れている大学一年生ですし、聞かれますよね()
先日、インターンでお世話になっているライターチームのリーダーのお兄さんに「何か夢とかあったりする?」と聞かれて、困ってアタフタしました。
夢に関する質問が苦手な理由のもう1つとして、野望とか夢とかに目が向かないくらいに、今でいっぱいだからっていうのが挙げられるかなと思います。
まともに高校を卒業して、大学生になって、メディアの世界でお仕事をさせてもらったり、いろんな経験をさせてもらっている今が夢心地すぎて。
今がもう既に夢のような気分なんですね、私。
ちゃんと生きてるし、生きてるって感覚も持てているし。
それすらが、夢のようだったりします。
そんな感じなので、
本当に答えられなくて、苦笑いで「幸せに生きるのが夢です!」なんて答えてしまったわけです。
本当は、「幸せに生きられたなぁと思いながら死ぬこと」なんて言おうとしたけど、さすがにドン引きされるなぁと思ってやめちゃいました笑
我ながらアバウトだなぁとか思いながら、私にとって「幸せに生きる」ってなんだろうと考え始めました。
幸せに生きる、人間らしく生きる
私が昔から念頭に置いているのは、人間らしく生きるというポイントです。
人間らしくというのは、私的には、自分の心から湧き出てくる感情みたいなニュアンスがあります。
だから私にとっての人間らしく生きるというのは、社会の色んな荒波に揉まれても、自分の中から湧き出てくる感情を殺すことなく大事に持ち続けながら生命を保つことだと考えています。
自分の感情を殺さないこと、
自分の感情を持ち、表現すること、
自分の感情を自分のアイデンティティとして守ること、
それらができることは、私にとって何にも代えがたい幸せなことです。
自分の感情を持ち表現することは、私にとっては、難しいことだけど素晴らしいことです。生きているという証を残せるから。
そして、自分の感情の揺らめきが自分のアイデンティティへと繋がっていくと思ってます。
でも、そんな大切な感情は、社会で生きていれば、荒波に揉まれてしまえば、簡単に自らの手とココロで殺せてしまうほど、繊細で脆いのです。
だから、感情って尊い。そして素晴らしいものだと思うのです。
私はそんな風に感情を紡ぎ、感情を守り、生きている証を残していけるような人間らしい生き方を送って、幸せに生きて死にたい。
これがきっと夢です。
別に凄いことをしたい訳でも、偉い人になりたい訳でも、社会的に名声が欲しい訳でも、成功したい訳でもなく、
ただのそこら辺の人でもいいから、人間らしく生きて、幸せに死ぬ。ただそれだけをしたい。
何になりたいか、何をやりたいかは、私にとってはどんな人生を送るか、どんな生き方をするかの1ページや手段にしかなりえないのです。
ただ、そういう風に生きたいと思ったら、私には社会の中の「生きづらさ」に弊害があり、何とかしなきゃ私の夢か叶わなくなってしまうので、私の夢を叶えるために、ヒカリテラスがあるのです。まぶぃーずもきっと一緒。
「社会のためだ〜」「国のためだ〜」って行動を起こすカッコイイ人や素晴らしい人とは違うんです。
そんな素晴らしく人間出来てないので、私。
あくまでも私のライフミッションを成功させるために私は今、「生きづらさ」というものに向き合ってます。
ついでに、社会ももっともっと良くなっていけばいいなと思ってますけどね。
ていう感じで、私的に考える幸せな生き方ってこんな感じですけど、皆さんはどうですか??
いろんな人の幸せな生き方を聞いてみたいなぁって思いました!
きっと一人ひとり、価値観が違って面白いんだろうなぁ。
それでは!明日は大学が一限からあるのでおやすみなさい〜( ´•౪•`)
大学にも慣れた頃、最近の話。
こんにちは!ちはるです。
ここ2年間くらい、日常のこと書くとか言ってる割に全然書いてないですよね。
私にとっては日常の1部だけど、感情とか哲学とか、学校、不登校とか生きづらさについて、そんなあたりばかり書き続けてる気がします。
(あ、そんなことない!たまに最初の世間話程度に書いてる!笑)
最近私を知った人も、随分前から私を知ってる人も、実際の私を知ってる人も、
実は私のこと、そんな知らないんじゃないかと思うわけでございます()
せいぜい、元不登校、ヒキニート、N高1期生、今は法学部の大学生ってくらい?
あとは、まぶぃーずやヒカリテラスって不思議なところで活動してるってくらい?
私も社会一般的な普通の女の子と同じように生きてるし、悩んでるし、楽しんでるってことを知ってもらいたいのと、
私自身が日常、最近のことをしたためておきたいので、笑
今回は最近の私について、どういう風に生きてるか、どんな日常なのか、書きたいなって思います()
お友達の話
N高を卒業してだいぶ和らいだと思った学校不信。思っている以上に手強くて、大学生になってもなお、学校に苦手意識を持ちながら生活を送っています。
でも、同じ学科のお友達が出来たことで、その苦手意識は少しずつ和らいでいるかなって思います。
必修の授業は必ず一緒だし、同じ授業のときは安心する。気にかけてくれたり、心配してくれたり、笑ってくれたり、私はとても嬉しい。
今は優しい(あと可愛い!)お友達とシンプルに平和に学校生活を送れてます。
(いつもありがとう.....!)
でも、私ばっかり幸せな気持ちにさせてもらっているのではないか、めっちゃ気を使わせているのではないか、みんかは私といて楽しいのか、正直不安。
私自身、人付き合いがあまり得意ではないので、嫌な気持ちにさせてないか、つまらない気持ちにさせてないか、ちょっと伺いながら過ごしてます。
みんなすごく優しくて、まるでホットミルク、ホットココア(マシュマロ入り)のような心の持ち主なので、その優しさに漬け込んでしまわないかも不安。
そんなことを思うくらいに、ステキな人とお友達になれたことが大学生活で一番嬉しいことかな。
あ、でも、その他の人とは全くもって関わり持ててないので(コミュ障発揮しすぎている笑)いい加減、少なくとも同じクラスの人の名前と顔は一致できるようにしたいものです()
メンタル弱いのは相変わらず、でも充実してる!
そんな感じで、割と幸せに平和に学校生活を送れているわけでございますが、
メンタルめちゃくちゃ弱いのは成長していないようです。
最近、大きな音や怒鳴り声、荒らげた声を聞くと、手が震えてしまうようになりました。それを思い出すだけでも、心がピリピリします。
だから実は声を荒らげたことのある先生の授業が怖いんですよね。
昔とは違って、ちゃんと授業に出るようにはしていますが、それまでは学校の校門前で駄々をこねる不登校生のようです。(ご迷惑おかけしてます。)
あと、やっぱり人の感情に敏感なのも変わらないです。
私はいつも2時間弱かけて通学しているのですが満員電車の時、人の感情やその他もろもろメンタルの部分を遮断するためにイヤホンが欠かせません。
でも、大人数の授業ではイヤホンを付けたり、目を閉じたりするのは、先生に失礼にあたるだろうし、せっかくの授業がもったいなくて出来ないので、人の感情やメンタルの影響をめちゃくちゃ受けて授業を受けてたりします。
必修の時は友達と一緒に授業を受けているので、感情やメンタルの影響も少なくて安心して受けられますが。
他にも日々、いろんな辛いこととか苦しいことに遭遇しては、心がポキポキ折れて、なんだかんだ立ち上がって、歩いてみるみたいな感じで生きてます。
そんな毎日ですが、自分の感情が動いていることが毎日のように分かるので、ある意味、いい意味で、「生きてるなぁ」と感じられています。
あとは、インターンでも色んな人と関わることが増えて、最近とても緊張して心がプルプル震えている毎日が続いています。
でも、本当に本当にメディアに関わることをしていきたいと思っていたからこそ、必死に喰らい付いていきたいとも思ってます。まだまだペーペーなので!!
それにインターンとして働いて得た自分のお金っていうところに、少し安心感を持てています。
高校2年の頃もライターのお仕事はさせてもらっていたとはいえ、高校3年は全くもってバイトも仕事もしていないので、親のスネをかじり尽くす生活をしていたのです。
まぶぃーずだったり、ヒカリテラスだったりで活動する時の交通費も、友達と遊ぶ時のお金も、両親が負担してくれていたので、
「親に甘え過ぎだ」「親が甘やかしてくれる」「自分の力では何も出来ないくせに」
みたいなイメージを持たれても何も言えない状況でした。
でも大学生になって、自分のお金で活動したり、自分のお金で好きなことをしたり、好きなものを買ったり、経験を買ったりすることができた現状に今は安心しています。
活動に関しては、団体内で必要経費を賄えるようなお金を回す仕組みを考えなくてはいけないのですが、、、!
インターンとして働いていただいたお給料で、最近は髪を切りにいったり、大好きなボカロPさんのCDを買ったり、憧れだったブランドのお洋服を買いに行ったりしました。
とても楽しいです。毎日。
色んなことがあるけど、辛いこともあるけど、でもすごくありえないくらいに充実してます。
すごく感傷に浸りたいのか、「自分を信じてきてよかった」って言いたい気分です。
そんな今日は、不登校になる前、虐められていた時の私に、きっかけや勇気を与えてくれたスゴい人とお話をしてきます。
とても緊張しているけど、せっかくのチャンスをいただいたので、150%の力で味わってきます。
それではっ!!!!
「やらない」と「できない」は違うもの。
こんにちは!ちはるです。
つい先日、ものすご~くラッキーな出来事がありました。
公な場所で話せる内容ではないのでブログでは憚らせてもらいますが、
私がブログを始めてなければ、皆さんが読んでくださらなければ、周りの人が私にチャンスをくださらなければ、このラッキーな出来事はなかったと思います。
改めて私は、今こうして好きなことをしてパッションを感じながらも、心穏やかに生きていられること、そしてたくさんのチャンスに恵まれていることを幸せに感じています。
まだまだ未熟ですが、いつもブログを通して見守り、応援してくださる皆さんに感謝してもしきれません。涙 いつもありがとうございます。
最近は「やらない」と「できない」の違いについて考えているので、そのお話をば。
不登校にも色々あるよね。
最近、また不登校の話題がでてきました。「不登校は不幸じゃない」ってYoutuberの男の子が言っているやつ。
私、あんまり気乗りしません。
「子どものくせに何言ってるんだ」「社会を甘く見すぎだ」とか思っているわけでは一切なく、何故だか、すごく心苦しくて、悲しくて。
言っていることも正しいし、やっていることも素晴らしいことは重々理解しているつもりです。いや、小学生の少年が賛否両論で騒がれててもなお、活動しているのはすごいと思います。
でも、彼が不登校の代表として公の場に出ることについて、懐疑的な目線で見ています。
というのも、彼は「学校に行きたくないから学校に行かない」という選択をしただけなんですね。私が勝手に言うところの「非登校」の部類なんです。
非登校の子は最近とても増えてきました。学校や学校での学習に違和感を持ったり、違和感から苦痛を抱えたり、そういう子も増えてきてもおかしくはない時代になってきました。
でも世の中には、「学校に行きたくても行けないから、学校に行けていない」という不登校の人も数多く存在しているのも事実です。
だから、彼だけを不登校の代表としてメディアに出ることに対して、ちょっとしたゾワゾワそた感情や、危険だなぁと思って見ていました。
私の不登校経験は、不登校と非登校を行き来した感じなので、どちらが不登校として正しいとか言うつもりは全くないけど、
もし仮に、「学校に行きたくても行けない」不登校の子が彼の言葉を何かを通して見聞きした場合、反感を持つだろうし、傷つくことだってあるんじゃないかなとも思うし、彼みたいな子のほとんどが不登校だと思われた時のことを考えて、怖い思いをすることだって無くはないと思っています。
それに非登校タイプ(わかりやすくタイプ化するのを許してw)は未だに一般社会では受け入れ難い存在です。
今は教育法が変わって学校外の教育も受け入れやすくなっていましたが、あまり認知はされていませんし、昔の固定概念のまま「学校に行かない=サボり」と思う方も多いのです。
私は、「学校に行きたくても行けない」不登校から、「学校に行くのを諦めて、学校外での学習にシフトした」非登校になりました。
だから、どちらも社会的に苦しい思いを持っているのもよくわかるし、反発して発信する行動に出たのもすごいことだと思いました。
でも、「やらない選択をする」のと「やろうとしてもできない」はあまりにも根本的な問題が違いすぎるからこそ、彼が不登校の代表としてメディアに出てしまうことが実は怖かったのです。
「やらない」と「できない」は根本が違うよね。
「やらない」と「できない」は、行動的に見たり、表面的には同じことのように感じますが、私は根っこの部分が全く違うものだと思います。
「やらない」は自らが決断をして、故意的にやらないのに対して、「できない」は「やろう」と思っていても、何らかが邪魔をして達成できないのです。
つまり、表面的には同じように見えても、根本が違うから、考え方もアプローチ方法も全然違うわけです。
だから、不登校の子、非登校の子に同じように「学校に行きたくなかったら、学校に行かなくてもいい」と言っても、非登校の子には共感、賛同を得られますが、不登校の子からすれば、「諦めろ」と言われたような気がしたり、苦しんだり、反感を買ってしまいます。
それと同じように、不登校の子、非登校の子、それぞれ同じように「学校復帰しよう」とアプローチをしても、不登校の子は現状が回復すれば学校復帰できる可能性はありますが、非登校の子は「自分の考えを認められなかった」と嫌な気持ちになったり、受け入れられなかった苦しみを抱くと思います。
とどのつまり、私が今日お話したかったのは、
某Youtuberの彼にしても、メディアにしても、社会の大人にしても、「やらない」と「できない」は似て非なるものなので、一緒くたにまとめてアプローチをかければ苦しむ人は出てくるよ~って話をしたかったのです。
また、色んな形の不登校が存在しているから、そのうちの1タイプを不登校の代表みたいにメディアに出すと、そりゃ叩かれるし、荒れるよねって。
でも一番は社会に生きる人は、不登校をはじめとする「生きづらさ」に目を向けて、少しでも考えてくれること。
そんな暖かい社会になれば、こんがらがってる糸も、ちょっと解れていってくれると思っています。
だから、ヒカリテラス。頑張ろうって思いました。!!
P.S.
ヒカリテラスで今、記事を書いてくれる人を募集しています。「生きづらさ」について伝えたい思いがある人、ヒカリテラスで一緒に光を照らしていきましょう✨
私たちが持つ「学ぶ権利」
こんにちは!大学に入学して3週間ほど経ちました。時と言うものは早いですね。ついさっきまで、コスプレチックな制服を着て楽しんでたというのに。
私は大学に入って、とある資格を取ろうと思って「教育」についての科目を取って講義を受けてます。(この授業めっちゃ楽しいのですよ。興味深いって意味で。)
そして、この授業で「学校教育は今の日本にとって完璧なのか」「学校外での学び」についてを考えながら受けてます。
やっぱり「不登校」「生きづらさ」を考えるなら、教育という場所からの視点も持っておきたいと思ってるのでね。
こんなこと書いてると、「真面目」だとか「気持ち悪い」とかって笑われるかな笑
ちょっと怯えながらも、書いてみます。
今回、この記事で書きたいのは義務教育と学習権。つまり、私たちが持ってるのは権利であるのか、義務であるのか、について。
学校に行かずとも、学べた不登校時代
私の不登校時代は、実はほかの不登校の子よりも格段に充実した学びで満ちていました。
なぜなら、不登校中でも自宅学習や地元の進学塾などで学ぶ機会が確保してあり、普通に学校に通う子と同等の学力を身につけることができ、中学高校進学時も困ることがあまりなかったからです。
もちろん、勉強なんか手につかなくて自暴自棄になった時期になったり、荒れた時期もあったけど、学ぶ権利が奪われることも、学校での教育を義務教育として強要されることもありませんでした。
今は教育法が変化し、学校外(フリースクールやホームエデュケーションなど)での学びが受け入れられるようになりましたが、私が不登校だった時は、学校教育が全ての状況で、その他の学びの機会は受けいけられることがほとんど無い状態でした。
それなのになぜ??
きっとそれは、両親や理解のある大人が教育権や学習権という権利を当時の私に教えてくれて、その権利の基で私の学習環境が守られていることを主張してくれていたからです。
そんな環境下で過ごせていたことが幸せなことだったんだと思うようになってから、教育権、学習権について独学で調べ、考えるようになりました。
その結果、
義務教育というものは、子どもの周りにいる大人(親、教員、教育委員会)が、子どもに教育を受けさせる義務、教育を受けるよう促す義務があるということ。
そして学習権は、私たち(子ども大人関わらず)が持つ積極的に学びを得ることができる権利であるということ。そして守られるべき基本的人権のひとつであるということ。
と私は考えたわけです。(今日までの結論。)
今日の講義で、第4回ユネスコ成人教育国際会議で発表された「学習権宣言」に触れたときに、今日この話をブログに書こうと決めてました。笑
基本的人権に学習権が含まれてるということは、学校に行かないだけで学ぶ権利が奪われることはあってはならないですし、
義務教育は、私たちが受ける義務ではなく、周りの大人が受けるように促す義務であるので、学校に行かないことが、法律違反になることはないのです。
学校での机上の勉強だけが「学び」?
最近すごく思うのは、学校で受ける国語や数学などの○×がハッキリ付くような机上の勉強だけが学びなのか?ということ。
学校で受けることのない心理について、いろんな哲学、生きづらさについて、それらについて考え、調べ、理解を深めること
多種多様な人間と関わり、いろんな価値観を知り知識として蓄えること
これらは確かに学校で学ぶことは無いけど、「学び」ですよね。
何を持って「学び」を定義するかは、価値観によって変わってくるだろうけど、私が講義や自らで考えた結果をもって定義してみると、
人間が存在するあらゆる場面、そして人生の中で行われる、人格形成に作用される知識を身に着けたり、発見したりすること。
かなと。
学校でできるような机上の勉強だけが学びではないし、それに固執する必要はないと思いました。もちろん、学校でできるような机上の勉強だって学びの一つだからやりたいならドンドンやったらとても良いと思います!(当時の現実逃避が勉強だった人。笑)
このブログを通して私が言いたいのは、
学びたい、勉強したいと思ってる不登校や引きこもりの人、いっぱい学んで勉強してほしい。
それが机上の勉強であろうと、そうでなかろうと。身に着けた学力も知識も生きていく上で絶対に強い力になります。
私は学校に行かなかった間、心理学を勉強して、社会に見え隠れする生きづらさについて強い関心を持ちました。そのおかげで社会や政治に目を向けたり、教育について考えたり、憲法を勉強してみたり、問題解決のためにコーチングを学んでみたりしています。
それらの学び、勉強が高校受験、大学受験に結びつくことは全くなかったけど、明日明後日と生きていく活力へと繋がっていきました。
だから、学びや教育って生きる活力になってくれるんじゃないかなって密かに考えてたりもします。
そんな人生に意味を与えるような、生きる活力になるような学びの機会が増えてほしいなぁと思いながら、今日はこれで終わりにしたいなぁと思います!
それでは~!!