甲冑じゃなくて、柔らかな布を。
こんにちは!ちはるです。
今日は毎月1回放送される、ヒカリテラスラジオ(風見しーちゃんのラジオ)の収録に行ってきました。
しーちゃんのラジオにお世話になってもうだいぶ時間が経ちますね。ヒカリテラスを立ち上げるってなったときにいただいた大きなチャンスの1つがこのラジオでした。
今も話すのは、本当に慣れないけど、届けたいこと、話したいことが、自分たちの声で発信できる媒体に出会えたことはとても大きいと思います。
今月は第3日曜の19時からなので、6月16日(日)19時からになります。しーちゃんのお誕生日、しーちゃんの歌についてお話ししたので、ぜひ聴いてみてくださいね♡
そして、この前の土日はとても色んな人と会って、色んなお話をしてきました。特に、社会にまつわる様々な問題や生きづらさに関してのお話。
生き方も考えの価値観も様々な人のお話を聞くのはとても楽しいし、勉強になります。
私は普段、自分だけの世界で思考し、価値観を深めていくことが多いので、その思考や価値観をアウトプットする機会に恵まれていませんでした。
それもあってか、とても新鮮に感じられたし、人と価値観や思考をシェアする、深い話やディスカッションみたいなものをすることがいかに大事がわかったような気がしました。
今日はそんな話をして感じた、人と人の間に生まれるコミュニケーションにおいての鎧や甲冑のお話。
大人になるにつれて、臆病になるものだ。
最近思うのは、歳を重ねれば重ねるほど、人間で臆病になっていくんじゃないかってこと。
私たちは、まっさらで何もついていない裸の状態で生まれてきました。それは肉体的な意味でも精神的な意味でも。
そこから、愛情や言語、社会のマナー、生き方など色んなところで色んなことを吸収し成長してきました。
もちろん、どんな人間も100%良い状態で成長するわけではありません。
そして、産まれて間もないまっさらな裸の状態から、強い個性を持って産まれてくる人もいて、その個性すら傷に見えたり、その個性によって傷つけられたりします。
吸収の段階で必要な愛情や教養を受けることができなかったり、その他の心無い何かによって傷つけられたり、心が殺されたり、、そうやって私たちは社会を鮮明に見えるくらいに成長するのと同時にまっさらな裸は薄汚れたり、傷ついたりしていくんだと思います。
だから、私たちはそんな薄汚れて、傷ついた裸の自分自身を醜く感じるし、恐怖すら覚える。
そんな姿を見せることに怯えて、私たちは大人になっていくにつれて、鎧や甲冑を着続けていくんじゃないかって。
薄汚れて、傷だらけの自分を、きっと周りは愛してくれない。
そして、きっと周りや、社会をどれだけ探しても、存在を受け入れ、存在を認めてくれる居場所はないんだ。って。
今の人間関係はどこか希薄です。
それはきっと、傷つけられる怖さに怯え続けて、鎧や甲冑を着ていても、裸でぶつかり合わなくても、存在を認めてくれない関係性でも、どことなく生きていけるからです。
誰とでも繋がれるようになった反面、気軽に疎遠になることも容易になったからです。
こういった人間関係って、実は脆く、孤独を産みやすいのではないかなって、
このような人間関係がスタンダードとして存在しているのも「生きづらさ」と関係しているのではないかなって。
昔から考えとしてあったわけです。
甲冑を捨てて、生きる。
私たちは、産まれてからどのタイミングでかはさて置きながら、
傷をつけられ、薄汚れて、周りの目線に臆病になって、隠すように守るように甲冑や鎧を身に付けて生きています。
それは甲冑や鎧の大小は置いといても、みんな一緒だと思います。
どんな自信を持っている人でも、名声のある人でも、誰にも言われたくない晒されたくない何かを持っています。
人間って、完璧な姿がない生き物です。そして全く同じがない生き物です。
誰にでも、凄いところ、好きなところ、尊敬するところがあるように、嫌いなところ、苦手なところだってあるものです。
それが当たり前。だって人間はいびつになるように作られているから。
人間と人間のでこぼこがパズルのピースのように、受け入れ合い、認め合い、共存していくために、いびつに作られているのだと思います。
(こんなこと言ったら胡散臭いけど。)
でも人間って臆病だから、自分の傷や薄汚れた裸を守るために、見せないために、周りの人の傷や薄汚れた部分を嘲笑ってしまう…。それにまた怯えて、甲冑の上から甲冑を重ねていく…。
これが今の世の中だと思います。
自分を守るだけで、生きていくのが精一杯なんですよね。きっと。
自分だけで守り生きていくのが精一杯で、でも存在していいのか、生きていてもいいのか、分からなくて、気付いたら周りには人がいなくて。
そんな中、見た目だけでも強く凛々しく逞しく生きている人で溢れる社会です。
辛い人がいても手を差し伸べてあげられない、私も苦しくて手を差し伸べられる力がないから。
存在する価値がないと嘆いてても何も出来ない、私も存在する価値がないと思っているから。
何も出来ない、何もしてくれない、だから私は助けを求めらない、弱さを出せない。強くなければならない。
甲冑を付けるのは、私たちが臆病で弱いから。
でもその中に隠している、薄汚れて傷もついた身体は、私たちが繊細で優しいさまを表しているんだ、生きている証を表しているんだって思うのです。
だから、愛してあげてほしい。まずは私たち自身の醜い裸を。生きた証を。
最初に存在を愛してあげられるのは、きっと自分自身だって、きっと薄々わかってる。
愛してあげられたら、甲冑を脱ぎ捨てることも出来るのかもしれない。
周りも甲冑を脱ぎ捨てることが出来るかもしれない。
いつでも戦闘モードな甲冑姿ではなく、素顔が見えて柔らかい布を纏った私たちで関わりあえるかもしれない。
こーやっていつものようにウダウダと書きたいことを書き連ねていますが、
私はこういう社会を夢見ています。
いつも、どんなときも。
傷つけられた時も、ドロを被った時も、自己嫌悪になった時も、
最初は甲冑がなきゃって思うかもしれないけど、柔らかい布を纏える社会で生きたいと。
そして、甲冑を捨てることは弱さを見せることではなく、優しさと勇気を見せることだって信じていたいと。
いつものようにどうやって締めればいいかわからないけど、伝えたい気持ちを紡いでみました。
ニュアンスだけでも伝わってくれたら、幸せです。