やっぱり「居場所づくり」に関わりたい。
こんにちは!
バタバタ忙しなく動き回る日々が続きます、身体は追いついてないです。笑
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
中々、ブログを書く時間がなくて、とても悲しい。かと思いながらも無理やり書くのもなんか違うなぁとも思って、時間だけが過ぎていく……笑
Twitterは気軽ですけど、書けないこともありますね。たくさん。()
だからこそ、ここで書きたい話が募っていくなぁ。
今日は、私の原点でもある「居場所づくり」についてお話したいなって思ってます。
「生きづらさ」を和らげたいって話。
私がこの「居場所づくり」というものをはじめようと思ったきっかけは、社会にはこびる「生きづらさ」からでした。
人と比べて上手に生きることができない自分に苦しんだり、
人と少し違う特色があるだけで壁を作られてしまう冷たさを目の当たりにしたり、
何かわからない心のモヤモヤに生きる力を吸い取られたり、
「不登校」になったり、「引きこもり」したり、色々やらかしたけど、きっとそれらはなんでもなくて。
私は、よくわからない社会の何かに「生きづらい」って思いながら、18年間ずっと生きてきました。
それがすごく嫌で仕方がなかった。
ずっとこの生きづらさに怯えながら死んでいくと考えると、今すぐ死にたくなった。
でも、頑なに死に損ないのプライドみたいなものがあって、もう自分で死は選択できないんですよね。
どうせ生きるなら、生きてて良かったって思いたいんです。今でもそう思って生きてます。
でも、普通に社会に飲まれるように生きていたら、そんな風には思えないだろう。生きづらさに怯え続けるだけだろう。
ぐるぐると考えて、ブログをはじめて、ライターをはじめて、それでもなお考えて、
行き着いた場所で出会った仲間と、ひょんなことからはじめたのが「居場所づくり」だったんです。
私はその活動が好きで、のめり込みました。
そこで知ったのは、
生きづらさは、社会的マイノリティや人とは違う特色、障害や病気を持った人だけが抱える感情ではないこと。
何気ない顔で生きている人だって、生きづらさや自死を考えるほどの苦しみに苛まれている可能性があること。
生きづらさは誰かの杓子定規で測れるものではなく、一人ひとり違う形を持っていること。
たくさんの人が「生きづらさ」を抱えている、それを吐き出せない人もいる、「生きづらさ」が限界を超えて精神疾患を患ったり、社会と関わることを辞めてしまったり、自死を選択してしまったりする。
まだまだ苦しい現実があることは分かっているけど、当時の私にとっては激しく苦しい現実でした。
でも、なにか明確な理由は無いけど、「生きづらさ」を解決したいと思いました。
まずは何をもってして、「生きづらさ」を解決すると言えるのかというところから考えました。
「生きづらさ」という感情は持っているといけないわけではないし、感情の問題だから無くすことは難しい。
「生きづらさ」の1番の問題は、抱えすぎてしまって最悪の選択や結果を引き起こすことだと思いました。
心の中の視野が広くない段階で自死を選択してしまったり、
抱え込みすぎて精神疾患を引き起こしてしまったり、お酒や薬に頼らなければ生きていけなくなってしまったり。
そうならないために、「生きづらさ」を吐き出し、和らげることが必要だと考えました。
そのためには、「生きづらさ」を吐き出せる場、その感情を受け止める場、共有できる場。同じ境遇の仲間と共感できる場。
そう、居場所です。
私は「居場所づくり」の活動に大きな期待を寄せました。
つくった「居場所」の問題点
しかし個人的には、つくってきた「居場所」は不十分でした。
居場所づくりにのめり込んでいた時は、感覚的にちょっと違うなって思いながらも何故かわかりませんでした。
本当に手を差し伸べたい人には届かないんじゃないか。
やっていることは現状維持でしかないのではないか。
当時のモヤモヤを今、もう1回考えてみました。
①「共感」「理解」だけでは「生きる力」は復活しない。(かも)
当時の私が感じていた「やっていることは現状維持でしかないのでは?」という思惑はあながち間違いではなかったようです。
「共感」「理解」は、自己開示をし、早い段階で「生きづらさ」をより小さくするためには重要な工程です。
しかし、「共感」「理解」は「この人たちなら大丈夫」という生きていく上での安心材料にはなるものの、それが「生きる希望」や「生き甲斐」に繋がるとは考えづらいのです。
人が生きていく上で、自分が自分として生きていても良いと思える「自己肯定感」も重要ですが、同じように自分が社会の役に立てている(自分が生きている意味がある)と思えることも重要だと思うのです。
②そもそも離れた地域の人は「居場所」に行けない
「生きづらさ」を抱えた人は、自分たちの周りだけにいる訳ではありません。
私たちの団体は関東を中心に活動していたこともあって、他の地方の人に手を差し伸べることができませんでした。当たり前のように「仕方ない」と思うことしかできませんでした。
私たちのように「居場所づくり」をしている人や団体は東京や大阪などの大都市にこそ、沢山ありますが、
ちょっとした田舎町などの都市が近くにない場所には、本当にないんです。
遠くから足を運ぶにもとてつもない労力とお金が必要です。
近くに居場所がないから、チャンスを掴めない人も沢山いることは、仕方ないのかもしれないけどとても苦しかったです。
③「居場所」にも合う合わないはある
「居場所」が全ての「生きづらさ」を和らげることができるとは思えます。
「居場所」と言えど、人が集まった集団なので、コミュニティの合う合わないはもちろんあります。あって当然です。
そして「共感」という点では、人間なので「共感」できないこともあります。
自分が経験したことでないと共感はできないと考えているからかもしれませんが。
私の団体は「不登校」と「引きこもり」を中心とした「居場所づくり」をおこなっていました。
だからそういう関連の話はできるし、共感もできるし、相談にも乗れます。
でも、虐待やDVなどの家庭問題、性的指向の話は、勉強して理解はできても、共感となると難しいし、話を聞くだけしかできません。
やはり、1つの居場所だけでは難しいのです。
だからって諦めるのは、何だかんだ惜しくて。
居場所づくりというものから距離を置いてみたけど、やっぱり魅力的でした。
人間関係のもつれだったり、人に傷つけられたりで、生きづらくなったり、苦しくなったりするけど、
それらは時間が解決してくれるわけでもないし、1人でいれば和らぐことでもないんだろうなって。
だから、きっと人と関わること、人生における仲間をたくさん見つけることで、
生きづらさも、生き方や人生も変わっていくんじゃないかって思ってます。
その1つのきっかけとして居場所が関われるかもしれないと思うととても素敵。
そして居場所から、仲間が生まれ、生きる希望が生まれたら、もっともっと素敵。
やっぱり私は、居場所づくりに関わっていたいんだなって思いました。
結局はこういうことがやりたい。!
やっぱり私、居場所づくりに関わりたいです。
生きづらい時や苦しい時には一緒に支え合って、
一緒に、未来を想像して、生きる希望を見つけて、
そういった人生における仲間を見つけられる居場所を
私は作りたい。
ただ必要としている段階の居場所ってあるだろうし、合う合わないもある、得意不得意もあるし、地域の問題もある。
きっと1つの居場所だけでは難しいです。
それに居場所はたくさんあった方が良いはずです。
だから、
全国各地にある様々な居場所と居場所を結ぶコミュニティを作りたいです。
もし居場所に来てくれた人に、もっと合う居場所があった時に紹介できるかもしれない。
もし場所が遠くて行けない人と繋がったとしても、より近い居場所を紹介できるかもしれない。
たくさんの居場所と居場所が繋がることで、差し伸べられる手も増えていくと思います。
そして、「居場所づくりをしたい」と思っている人にも手を差し伸べられると思っています。
また、居場所づくりに関わっている人同士で仲間になることもできます。
居場所づくりをしている人同士でも、居場所に集う人同士でも、仲間の存在ができます。
私の1番の夢は、共に生きる仲間をたくさん作ることです。
この居場所と居場所を結ぶコミュニティができたら、私たちにはたくさんの仲間ができることでしょう。
居場所づくりを通して、一緒に未来を想像して、生きる希望や自分自身の生きる意味を見つける仲間ができるって素敵…。
私はそういう素敵な未来を作りたいです。
生きる希望を見つけるためにも、
私が生きてて良かったって思うためにも。
あぁやりたいな。
まずは色んな居場所と出会いたいな。
夢が見つかるとこんなにも未来が鮮やかに見えるんですね。素敵だ。
深夜に書いてるから、自分でも何書いてるか分からなくなってきたけど笑
また、詳しいアイデアとか思いついたらブログにしますね。ふふっ
おやすみなさい!!