ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

きっと恵まれてるんだと思う。

こんにちは!

12月になってコートとマフラーがないと寒さが厳しくなってきました。

皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

私は絶賛、中だるみ太郎を極めております。

ずっと体調が優れなくて、極めつけに現在進行形で風邪をこじらせてます。

 

ちゃんと治しますね…笑

 

大学に入って、だいぶ周りの人間関係を理解してきて、

 

楽しいっちゃ楽しいけど、ぬるま湯に浸かってるような平和ボケしてる日々を過ごしてるような気がしてしまって、

 

人生が薄っぺらいというか、つまらないというか。

 

これは生き急いでいるのかな。

 

当たり前であることは、当たり前でないことを忘れないように日々過ごしていこうと思っているんだけど、思わず忘れてしまいそう。

 

自戒も込めて。

今日は、恵まれてるんだなぁって思ってるよって話をば。

 

平和ぼけ。

 

言葉の発信地ヒカリテラスなり、まぶぃーずなりで活動したり、

「生きづらさ」だったり、「社会的マイノリティ」だったり、「自死の問題」だったりを調べたり勉強したり、

 

そうやって繰り返していると思うことがあって。

 

「私は恵まれてるから今もこうやって生きているけど、そんな人間が『生きづらさが〜』なんて発信しても届くのだろうか。」

 

そんなことを考えてます。

 

でも、そんなことを考えながらも、

私がやらないときっと私が納得いく生き方を送れないだろうし、

恵まれているからこそ出来ていることなのかもしれないだろうし、

って思いながら過ごしてるんですが。

 

それに日々、大学に通っている人が多いコミュニティに属していると

 

大学に通えることが当たり前で、

適当にバイトしてインターンして、私腹を肥すためのお金を稼ぐことが当たり前で、

寒ければコートが買えて、お腹が空いたらご飯があって、雨が降れば帰る家があることが当たり前で、

 

今いる環境が当たり前のように思えてしまって、恵まれすぎていることを忘れてしまいそうで。

 

平和ボケしてるっていうか、そこそこの幸せのぬるま湯に浸かってるような気分になります。

 

本当にそれでいいのかなって。

 

私はこのまま平和ボケしたままで死んでっていいのかなって。

 

お風呂の中とか、帰りの電車の中とかで、

ずっとずっと考えていて。

 

(これこそ平和ボケなんだけど)

 

私にとって当たり前にある環境や機会が、

他の人にとっては当たり前とは言い難い状態で、

 

当たり前じゃない環境にある人を憂うわけではなくて、

 

ただただ、私が恵まれている環境に生きていることを、当たり前のように悠々と生きている今に

 

ものすごくムカついてる。

 

きっと、私の周りの人々も悪気なくそのような環境でいられることを当たり前に思っているんだろうなーって思って、

 

みんな一緒だからいいじゃんって自分を甘やかしてしまいそうで、

 

それもなんかモヤモヤっとしていて。

 

そんなムカムカやモヤモヤが溢れすぎてる今日この頃です。

 

出逢った祝辞の言葉

今年の4月、上野千鶴子さんの東大入学式での祝辞が色んなメディアでニュースになり、色んな意見が色んな場所で巻き起こりました。

 

男女平等やジェンダーの話が話題にあがりましたが、私が注目したのは少し違う場所でした。

 

「娘の翼を折らないようにしてきた」

 

少し前に「女子教育」の必要性を訴え、ノーベル平和賞を受賞されたマララさんのお父さんが、彼女をどのように育てたのかと聞かれた時に答えた言葉です。

 

人生を歩んでいく上で、諦めたり、挫折したり、といった経験はあると思います。

 

それに、女だから、○○だから、と頑張ろうと思っても、周りからその翼を折られてしまうことだって無くありません。

 

上野千鶴子さんの祝辞では

「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

という言葉があるように、進路やこれからの人生を考えていく中で、簡単に翼を折られてしまうこともあるのです。

 

それは、男だから、女だからだけではなく。

 

病気や、家庭の経済環境、他にも色々な理由があって、翼は折られてしまうのです。

 

私はこうやって大学に通えているけれど、

 

「家にお金が無くて通えなかった」

「親に行く必要が無いと言われてしまった」

「病気が進行しちゃって通えなかった」

 

大学やその先の行きたい進路があったのにも関わらず、様々な都合で進めない人の声を聞いて、胸が苦しくなりました。

 

私自身がなんの不自由も無く、簡単に大学に通えてしまってること。

 

少なくとも望んで入学した学校のはずなのに、サボったり、本当はこんなところ行きたくなかったって言ったり、する人が周りにいること。

 

たかだか、運が良かっただけ、環境や機会に恵まれていただけで、

 

のうのうと生きて居られてしまうこと。

 

その裏で、たくさんの涙を飲み込んだ人や、翼をおられてしまった人がいること。

 

自分自身の努力でここまでやってきたと思ってきたけど、

それはほんの少しで、ほとんどは翼を折られない環境に居られたこと、たまたま機会に恵まれすぎていたことが根本にあること。

 

色んなことが頭上に浮かびました。

 

とても苦しかった。

 

でも祝辞の終盤、この言葉を読みました。

 

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

 

この言葉は東大の祝辞で、東大の新入生へ向けたメッセージですが、

 

私にとって、すごく大切な言葉のように思えました。

 

恵まれた環境と機会を手にできたこと、それは私だけの力によって出来たことではなく、

たくさんの人の努力と、思いと、ラッキーによって、手にできてしまったもの。

 

それらをどのように自分自身の力としていくか、恵まれたことで得た力をどのように使っていくかがとても重要だと。

 

これまでも、私はラッキーでしかないって言ってきたけど、そんなこと言ってる暇はないんですよね。

 

如何にそのラッキーを自分自身の力にしていくか、ラッキーで終わらせないか。

 

そして、その力を自分のためだけではなく、異なる境遇にいる人を貶すためだけでなく、

異なる境遇に居る人、辛い苦しい境遇に置かれている人と共に生きるために、手を差し伸べられるか。

 

きっと、それが大切。

 

恵まれた環境、恵まれた機会を当たり前だと、胡座をかかずに、できる人間になりたいですね。

 

 

それでは。をば。