社会の隅っこに居場所を作る
昨日のヒカリテラスのラジオで話したこと。
「社会に生きる多くの人に理解に求めるより、社会の隅っこにいる共感してくれる居場所を作ること」
社会には色んな人が生きていて、
一人ひとり、それぞれが色んな価値観を持っている。
社会的マイノリティと呼ばれるものを
嫌ったり、知ろうとしなかったり、拒絶したり、
そういう人もいっぱいいる。
私が感じている生きづらさにだって、
色んなところで発信すれば
離れていく人も、陰口を言う人も、
いたかもしれないし、いるかもしれない。
私が活動している言葉の発信地ヒカリテラスは
「生きづらさ」に関する共感と理解を増やし広げるためのメディアづくりをしている。
当事者や経験者がどういう気持ちや思いでこれまで過ごしてきたのか、乗り越えてきたのか。
今、生きづらさを抱えて苦しんでいる人の心に寄り添い、その人の行動のちょっとした勇気になれるような言葉を発信しようと動いてきた。
なんで始めたのか。
色んな人には神様にこれをやりなさいって言われたような気がした、なんて話しているけど。
1番、私が必要としていたからなのかもしれない。と最近は思う。
言葉を紡いで、それが誰かに届いて、気持ちや思いが共有できたら、
たとえ近くに居なくても、仲間を感じられる。
わかってくれる(かもしれない)居場所を感じられる。
ベッドの中では孤独で、学校やバイト先では信用できる人がいなくなって、
言葉を介せば、そこに居場所を感じられる。人の温かさを感じられる。
そんな居場所を私が1番欲していたのかもしれない。
活動をする、何かを団体を作る、プロジェクトを立ち上げる。
何か社会のために動きたかったのか、
社会に投げかけたかったのか、
多分聞かれるだろうし、
きっとあの子はそうだろう
と思われるんだろうけど。
3割は正解で、7割は間違いな気がする。
生きづらさを見向きもしない、隅っこに追いやる、関係ないと思ってる社会の大多数に
「本当にそうなの?多分そうじゃないよ」って問いかけたいと立っている私もいる。
でも、生きづらさを抱えて苦しんでいる人、でも頑張りたい、前を向きたいと思っている人に対して、
「私も一緒だよ、仲間だよ」って手を繋ぎたいと思っている私もいる。
言葉の発信地ヒカリテラスは、
社会の真ん中に「生きづらさって簡単に起こりうるものなんです!」って問いかけて、投げかける発信地。
でも本当は、表には見えない生きづらさを抱えた人に「ここに仲間がいるよ」って手を差し伸べられる言葉の居場所。
そういう場所にしたいな。
社会の真ん中は空気が薄くて居れなくても、
社会の隅っこに居場所があれば、仲間がいれば、
私は頑張って生きたいと思う。のかも。
だから、私は社会の隅っこに居場所を作れる人になりたい。
最近ね、
私が持ってる生きづらさをひた隠しにして生きてる。
今過ごしている環境に、持ってる生きづらさを理解してくれる人がいないと思っているから。
これを表に出したら、
嫌われるんじゃないか、離れていくんじゃないか、チャンスが掴めないんじゃないか、
そう思っているから。
毎日、不安と恐怖と隣合わせで生きてる。
いつか正体がバレるんじゃないか、その時はもうその場に居られないんじゃないか。
生きづらさをひた隠しにすればするほど、
不安と恐怖は大きくなっていく。
大きくなると、本来出せる力が出せなくなっていく。
実力のない人間なんか要らない。そうなれば簡単に私は捨てられてしまうんじゃないか。
毎日、不安で堪らなくて。
日に日に生きていくのに自信がなくなっていく。
でもね、おかしな話じゃない?
私の気持ちを多くの人に理解されないから、ひた隠しにするなんて。
色んな人間がいるんだから、理解されない人間も居たって当然だよね。
理解するしないは自由だけど、
この気持ちや思いを出すことだって、感じることだって自由だよね。
ポジティブであるべき!前向きであるべき!
そうやって世間は言うけど、
ネガティブはダメなの?後ろ向きはダメなの?
感情とか気持ちに良い悪いなんてないはずなのに。
でも結局、社会の動きは圧倒的にポジティブ信仰。
それもあって、生きづらいは吐き出せない。(原因のひとつに過ぎないけど)
真ん中では叫べないけど、隅っこなら吐き出せる居場所を作れるかも。
何を伝えたいかわかんなくなったけど、そういう気持ちでいる。