劣等生になりたかったんだ。
今日はぼーっと語るように書いていきますね。
今回は、「競うのが好きじゃなかったので、劣等生になりたかった」って話。要は昔話。
競う世界から逃げたくて。
昨日、私も去年参加したマイプロジェクトアワードの東京大会があったことを知りました。
そのためか、去年のことを思い出して不思議な感覚に陥ってました。
全国大会に行く気でメラメラと闘志を燃やしている周りの子たちに着いていけない私が、そこに立ってるのが見えました。
正直なところ、全国大会に行けたのは嬉しかったのですが、特別嬉しい訳ではなく、単純に今まで頑張ってきたことを認めてもらえたことが形となったので安心したという表現の方が正しかった印象があります。
もし仮に全国大会に行けなかったとしても、ケロッとしていたかもしれません。
同じように、これまでの英語のスピーチ大会やコンクール、部活の大会、高校受験に大学受験。
周りの人が緊張する中で、私はそんなドキドキを味わえなかった。
優勝できなくても、賞取れなくても、不合格でも、その場に立った経験だけで満足、そんな気持ちでいました。
正直、勝ち負けで競う環境に居ることがとても違和感でしかなかったし、あまり好きではなかったんです。
勝ち負けや優劣を付けられることが苦しかったし、いろんな物事に対して順位を付けられることが辛かった。
テストの順位や、模試の順位が、上位であればあるほど苦しく感じ、下位であればあるほど安堵した。そんな経験があります。
コンクールで選ばれたり、県大会に出場したこともありましたが、実はすごく苦しかった。
テストの結果が良ければ周りに変な目で見られて嫌われるし、コンクールや良い結果を出しても、そういうイメージが悪い意味で着いてしまう。きっと学校に行ってなかったのが理由ですけど。
それに順位や優劣を付けられることで、「この前のテストで何位だった人」「この前県大に行った人」というイメージしか頭に付かなくなって、真正面から私として向き合ってくれる人が居なくなるんじゃないかと思ったりしたこともありました。
多分この考えは、肩書きを持つことが好きじゃないというのと同じものです。
だから私は、私として向き合ってもらえるように、影の薄い劣等生にとてもなりたかったんです。
劣等生になりたかった
この前、中学時代の先輩の話を書いた時に、優等生に憧れた劣等生というタイトルを付けたのですが、その優等生の先輩に憧れたのは事実です。だってどんなレッテルを貼られてようと凛としていた強い人だったから。
でもそうなれないと悟った時に、劣等生であることの気楽さに気付いてしまったんです。
どうせ競われる社会から逃れられないなら、いっそ底辺に落ちてしまった方が楽じゃないか。
距離を置かれて嫌われるより、バカだって真正面から笑われた方が楽なんじゃないか。
何でもできる、何もしてあげなくても大丈夫、一人でも大丈夫だと、放っておかれるよりも、
助けてあげないと、教えてあげないとって思われる愛される劣等生の方がいいじゃん。
何でもできて、良い子って思われるより、何も出来ないの、バカだねぇ笑って言われる方がよっぽど幸せかもしれない。
劣等生って羨ましいなぁ。
劣等生という烙印は、私にとっては憧れでした。
今でも、劣等生になりたいと思ってます。
でも、もう必要ないかもしれません。競われる社会から離れることが出来そうなので。
競われる社会から離れることができたら、勝ち負けも優劣も関係なくなるし、縛られなくなる、そう思ってます。
あぁ。
いつか、優等生とか劣等生とか、何位の人とか、そんなレッテルを付けられない世界になるといいなぁ。
結果が全てな世の中が無くなってくれたらいいなぁ。
一人ひとりが、一人ひとりとして、個性を感じながら愛されるようになればいいなぁ。
そんな事を思った日曜日でした。