「不登校」でズルい私を肯定したかった
こんにちは!
ようやく怒涛のテスト期間も終わりが見えてきました。
大学1年間よく頑張ったなぁ私…。笑
本当に数年ぶりに学校に通う行為をしました。
メンタルは色んな意味で毎日ボロボロだったけど、なんとか生きてます!笑
まぁその話は後ほどとして。
今日はね、
昔の私を肯定できるようになったかなぁって話を考えてみようと思います。
肯定するための知識
私、大学内では法学部政治学科というところにいて、政治のお勉強をしているんです。
でもその一方で、社会教育主事という資格を取るためのお勉強もしていました。(理由は教育の勉強したかっただけなんだけども)
その資格のお勉強の中で、生涯学習や社会教育の勉強をするんですけど、
もろ不登校やフリースクールの話を勉強したわけです。(運命かな??笑)
元々、不登校についての知識はそれなりにあったわけですが、授業を取って、勉強したことによって、めちゃめちゃ知識を得られました。
棚ぼたって感じで、私の不登校であった時期を肯定してあげるための知識をつける事が出来たんですね。
子どもには学ぶ権利があって、学校に行かなくたって学ぶことができて、それを止めることなんてできないこと。
教育の研究をしている人の中には、学校に行かなくてもいいって言ってくれている人がいること。
不登校の子どもの権利宣言には、「安心して生きるためにじぶんのことを大切にしていいんだ。」と書かれていること。
他にも色々。
そんなことを知らないで、不登校で悩んでいる人に不登校でいいんだよって言えてしまうのは無責任に見えるけど。
その人たちは、不登校で悩んでしまうのが勿体ない人たちに見えたからです。ただそれだけ。
彼らは本当は強いし、真っ直ぐに生きてる人だって、たまたま躓いただけで。そう思ったから言えた言葉です。
昔は本当にそれだけで不登校でいいんだよって言っていたけど、
今は、色んな知識を元に不登校でいいんだよって言えるようになりました。
だから、その知識を元にであれば、私の不登校だったあの頃だって肯定できるようになりました。
こういう権利があるんだから、
この義務は子どもに課せられたものではないんだから、
こういうことができるんだから、
不登校だったとしても、大丈夫だったんだよ。
でも、なんだろう。ずっと心に残ってるんですよね。
「不登校なんて、弱い人間がすることだ」
「ズル休みできてズルい」
「私は苦しくても学校には行ってた」
「学校行かなくて、お気楽だよな」
不登校になったことで、言われた痛い言葉が。
知識があれば、そんな事ない!って反論できただろうけど、当時は何も知らずにその言葉を受けるしかできませんでした。
だから残ってるんです。
私は、誰よりも弱くてズルい人間なんだってなんかずっと頭から離れなくって。
むしろそこだけが、肯定できなくて。
誰かに頑張ってるねって言われたとしても、
そりゃこれまで頑張ってこなかったんだから、今頑張らないと。って思ってしまうんですよね。ずっと。
私が私の味方になる
これまでズルい生き方をしてきたんだから、
努力もせず生きてきたんだから、
他人に認められなくて当然なんだから、
今の私は誰よりも真っ当に努力して生きなきゃいけない。
今までも、今も、そう思って生きてきたんです。
ただ私は、人よりもメンタルも弱ければ、体力もなく、友好関係を築くのも苦手で、周りにあまり人が居ないので。()
シンプルに頑張れないことが頻繁にあるし、肯定してくれる人間も多くないわけです。
そもそも、周りに対して本心を出せないというか、怖くて親しくなれないというか、肯定できる要素を出してないんです。
それに、私を1番そばで理解してあげられるのは、私だけだし。
だから私が私を肯定してあげるのが1番早いかもしれないと。
まぁ自己肯定ですよね。でもその前に他者からの肯定があればスムーズです。
でも、私には居ないから、新しい視点での私で考えてみましょう。
もし仮に、こうやって悩んでいる私が誰かなら、私はなんと言ってあげられるだろう。
その誰かはどうしたらこの状態から抜け出せるだろう。
こうやって、新しい視点での私で覗いてみることで、もしかしたら肯定してあげられるかもしれないですね。
私のかつてのイマジナリーフレンド「すーちゃん」の再来でしょうか。多分もう戻ってはこないだろうけど。
ずっと刺さってる痛い言葉たちは、ずっと残るものです。
何気ない言葉でも、意図した言葉でも。
無くならないかもしれないけど、優しい言葉や存在があるだけで、和らげることだってできるんじゃないかって信じてみたいんですよ。
言葉の力で、私にも光は照らせるでしょうか。
ズルい生き方には変わりないかもしれないけど、違う視点でも努力してないかもしれないけど、
過去なんかどうったっていいかもしれないし、今いっぱい頑張ってるから過去なんかチャラかもしれないし。
少なくとも、知識は手に入ったので、あとはマインドのみです!()
言葉の力で、光を照らそう。
社会でも、誰かでもなく、まずは私自身に。
できたら、私強くなれるなぁ。。。
ごちゃっとしてるけど、ひとまずこれにて!
おやすみなさーい!
色々思ったのよ。
(タイトルサボりにサボった笑)
皆さんこんにちは。!絶賛テスト期間です。憂鬱です()
誕生日を迎え、新年を迎え、ずっと鬱々としているんですが。
最近、Twitterのタイムラインで「バースデーブルー」なるものがあると知って、「もしやそれでは……」と思っています。
他にも原因は山ほどあるんですけどね、きっと多分。
今日は色々思ってることをばぁーっと書き倒そうと思いますね( ˆᴗˆ )
「いのち」を考える
そのTwitterのタイムラインで流れてきた「バースデーブルー」の存在の原因は、「いのち」について考え過ぎたことだと思ってます。
去年の誕生日におじいちゃんの危篤で京都に向かったんですが、
それがあって「いのちって、人生って、簡単なんだなぁ。」と思うようになりました。
誕生日が近づくにつれて、去年を思い返したり、私の人生を考えたりして、ずーんと無性に悲しくなって。
「おめでとう」が苦しくて。
1日1日と近づく度に、あーもう無理だって泣いてました。
だから、「おめでとう」じゃなくて「ありがとう」に転換する1日にしようと決めました。
助けてくれてありがとう、
支えてくれてありがとう、
友達になってくれてありがとう、
色んな機会をくれてありがとう、
実際そういうのは恥ずかしいので、心のうちだけで。(意味無い)
お母さんには、ピンクの薔薇を1本。
プレゼントもケーキも要らないから、逆に何かをあげようと思いました。
やっぱりチクチクと苦しい1日だったけど、何とか乗り越えられました。
来年はどうなっちゃうんだろう。
近々おじいちゃんの一周忌に行くので、そこで気持ちの切り替えができたらいいんだけど。
〜すべき。〜しなきゃ。は危険なメッセージ
最近ブログとか、ツイートを見返せば見返すたびに、
「〜すべき。」「〜しなきゃ。」
ってワードが大量発生してて、めちゃめちゃ怖いと思いました。
昔、不安障害でカウンセリングと病院に通っていた時に、このワードを使いすぎるとよくないよ〜みたいなニュアンスのことを言われたのを思い出しました。
軽く調べてみたんですけど、そういう「〜すべき思考」というのは、不安感が強くなってしまい、メンタルが弱ってしまうらしいんですね。
「○○すべき」と思ってたことが、できなくなった時に自己嫌悪というか、許せなくなってしまうらしいんです。
何が原因かはわからないけど、何かしらにすごい負荷がかかってたんだろうなぁ。本当に不安定だった。
色々休もうって思いました。もうゆるく生きてやろうって。
結局、人生の最初から最後まで一緒なのは、自分だけなんだから、自分を大切にしなきゃなって。
今月はお給料が厳しいので節約ですが、春休みに入ったらめいっぱい甘やかせてあげたいな。
幸せなことにインターンは楽しいから、インターン行って、好きなことをいっぱいして、大切な人たちと逢って、そういう素敵な毎日を過ごそう◎
時々は、布団に引きこもったり、可愛いお洋服を買ったりして!
私自身にめいっぱい甘くしてあげよう、!
多分、鬱々した時いつも言ってるけど、結局出来てないんだよね。
きっと、他の人と比べたら頑張ってないし、頑張ってるって言ってしまえば怒られるだろうし、頑張っていると思われないだろうけど。
私は私の尺度で頑張ってることを、私自身で認めてあげようと思いました。
嬉しさも、辛さも、悲しさも、幸せも、全部私の物差しで認めてあげようと思いました。
だから、どう言われようと私は頑張ってる、それでいいって思えるようになります。いい加減。
言葉がそこへ連れてゆく
そう、誕生日のお祝いメッセージとして、インターンのお兄さんがくれた言葉。
「文字がそこへ連れてゆく」
この言葉、実は昔から大好きでした。
お兄さんのメッセージで、
ちーちゃんの文章は【人を動かす文章】
まさに「実際にその人をその場所へ連れてゆく」文章
って書いてくれていたことがすごく嬉しかったんです。
さておき、私は言葉を紡ぐというツールを手にしたことで、ここまで生きてこれました。
私の第2の人生とやらは、まさに「文字がそこへ連れてゆく」ならぬ「言葉がそこへ連れてゆく」ものでした。
昔から、個性がないこと、出来ることがないこと、空っぽで薄っぺらい人間である私が大嫌いでした。
でもひょんなことから、
こうやってブログを始めるようになり、私が書く文章が少しずつ読まれ、少しずつ素敵な感想を頂いたり、評価されるようになりました。
何も無い、空っぽな人間だったから、認められることが本当に嬉しかったんです。
私には、言葉があるじゃん。
それだけが肯定感の源で、それだけで前を向けました。
そこから、まぶぃーずのみんなと出逢って、色んなことをして、また自信をつけることができました。
その裏側で、憧れていたメディアでのお仕事、ライターとしてお仕事を始めることができました。
言葉を紡ぐことが私の人生を開いてくれてたんです。
他にも、大切な仲間が導いてくれたこともありますけど、その出逢いすらも私が言葉によって自信を付けなければ出逢えなかったかもしれません。
だから、私をここまで連れてきてくれたのは言葉だったんだと思います。
私にとって、言葉は一緒に生きる戦友のような存在です。
そして、私を作り上げてくれたものです。
やっぱり、私は言葉によって、そこへ連れてきてくれたんだと思ってます。
私が紡ぐ言葉は、私が感銘を受けた素敵な思考や思いや言葉が詰まってます。
本当に空っぽだった当時の私は、こうやって素敵なものをコピーすることでしか、中身を埋めることが出来なかったんです。
そして、そのコピーを私の思考軸として、今も色んなことを判断して、思考して、今を生きています。
だから、私の今の言葉も昔の言葉も、私の人生の移り変わりが混ざってます。
どんなものに感銘を受けてきたのか、
どんなことを素敵だと思ってきたのか、
何を考えて思ったのか。
それも全部全部、ひっくるめて、
私の言葉は、人生そのものなのかも知れません。
だから、言葉を紡ぐことを続けたいなと思ったわけです。私の人生を残すためにも。
今回は、見出しごとに最近思ったことを書き出してみました。
まだまだ色々、思ってることとか書きたいこととかあるけど、ゆっくり書いていきたいなと思ってます。
あでも、ひとまず先に、テストを頑張ることにします。。。
ひっそり応援してくださいね。笑
学生の方は一緒に頑張りましょうね。笑
それでは、!
19
皆さんこんにちは!もう年の瀬ですね。今年一年どんな感じでしたか?笑
私の場合はガラッと生活スタイルが変わったし、環境や人間関係もほとんどが変わって、バタバタの1年でした。
まさか19歳まで生きているとは。色んな方と出会い、支えられてきた結果ですね。
感謝してもしきれません。本当にありがとうございます。
誕生日というのは、自分自身がこの世に産み落とされた日を多くの人にお祝いされるって言うのがスタンダードだと思うのですが、
私はあまりお祝いされる側にいるのが得意ではないので、
ここまで出会い、絆を築き、支えられてきた、たくさんの方にどのような1年を経て今を迎えているのかを知ってもらう機会をもって、感謝を伝えたいと思ってます。
かれこれ、このブログを初めて4年を迎えます。毎年誕生日のブログは特別な気持ちになります。
今年1年を振り返っていきましょう。
大学生活のはじまり。
これまでと違うことは、大学生になったと言うことだと思います。
毎日毎日、外に出て勉強して、人と会って、何かしらの刺激を受ける日々になりました。
色んなことを考えて政治学科に入学しました。若かりし志高いあの頃はちょっと忘れかけてます。笑
入学前から分かりきっていた事だけど、政治だけを勉強しても「生きづらさ」や「自死の問題」を解決する手立てやヒントは手に入りません。
つまりは、大学内の学びだけでは足りなかった。それも込みでの政治学科だったんですけどね。
教育の視点から、福祉の視点から、国際的な視点から、「いじめ」「不登校」「社会的マイノリティ」「自死問題」の文書を読み、噛み砕き理解して、自分自身で考えました。
気付いたらいっぱい勉強してて、気付いたら知識量が増えてました。
これまでは情で訴えるような直感的、感情的な話し方が多かったのですが(きっと今もですが)、根拠をもって話すということができるようになりました。
やっぱり勉強する、知識を増やす、それを生かす、というサイクルを回すことはとても楽しかったです。
学生になるという選択をして正解だったと思える1年でした。
しかし、これまで格段に人と関わる機会が少なかった、気が合って似た価値観の仲間といることが多かった私にとって、
大学でたくさんの価値観を持った人と関わることは、たくさんの文化的なギャップを感じることで、疲れてしまうことも多いのも事実でした。
これは私にも言えることですが、
いかに、私たちの世代が少ないコミュニティの行き来で過ごしているか、凝り固まった価値観に踊らされているか、小さな物差しの測りあいで生きているか、すごく感じました。
この1年よくよく考えたのは、
当たり前に感じているこの生活は恵まれすぎているのではないか。
ということ。
大学のキャンパス内で過ごすと自ずと大学生としか出会いませんし、大学生という肩書きを持てていることが当たり前の事のように思ってしまいますが、
それは当たり前のことではなく、生まれてきた環境がたまたまそれなり裕福で、両親が学びに対して積極的で、自分の将来をそれなりに選択できる自由があったからに過ぎないのではないのか。
なんて思うようになったわけです。
行きたくても色んな都合で諦めた人間が数多くいて、それでも、のうのうと大学へ行けてしまった私でいいのかって。
すごーく苦しかった。
そんなことを考えてても、「こんな大学行く予定じゃなかった」「もっといい大学行けるはずだった」って普通に話せる人がいて、
大学で有意義な学びを受けられる権利を持っているのに、ダルいからって簡単にサボって、行かない人がいて。
そういう人を見て苦しい私がいるのに、実際問題、体調崩したり、精神状態安定しなくて、学校にいけない、学べる権利を放棄する日もあって。
何のために大学がひらかれていて、大学生という肩書きを持った私たちはどのように生きていかなきゃいけないんだろうって、グルグル考えてました。
私はそこで思ったんです。
恵まれた環境に生まれて、人よりも機会に恵まれたのだから、その機会や環境をいっぱい利用して、力をつけて、自分の人生を素敵にするかたわらで社会にも還元していきたいなって。
今年はきっと、
自分自身が立っている環境や、恵まれた機会について思考する1年だったんですね。
インターンもはじめました!
大学生になる2週間前から、とあるウェブメディアでインターンを始めました。
かれこれもう10ヶ月くらいは続いてるかな。
慣れない環境とお兄さんお姉さんだらけのコミュニティに未だに緊張しているけど、楽しいです。
学校の中だけじゃ息苦しくて、でもインターンのお兄さんお姉さんの話を聞くとちょっとだけ外の世界を垣間見ることが出来て楽しいんです。
今の大学生って、今の若者って、こんなこと考えて生きてるんだァって思ってます。
メディアの世界に兎にも角にも憧れてて、1回はライターやって見たけど続かなくて、他の編集部にたくさんアタックしても高校生だからって見向きもしてもらえなかった。
でもようやく、メディアの世界でお仕事出来てる嬉しい。
こうやってメディアのインターンしてるからって、IT系の企業に行きたいかって言われたら違うだろうし、メディア系に進みたいのかって言われても微妙だし、
就活のために、キャリアのためにインターンしてるのかって言われたらそれも違うし。
きっと先々の問題は置いといて、今いただいたチャンスを全部ぜんぶ掴んでチャレンジしたいんだと思います。
楽しい人生にしたいし、今を楽しく意味のある何かにしたい。
大学入るともう1年生から、キャリアだの就活だのって言われるんですね。やばい。(小並感)
ごめん、何も考えてないわ。そう思いながら何食わぬ顔して生きてます。
ちゃんと考えていかなきゃーって思いながら、あっという間にオババなんだろうな。
計り知れないほど、これまでの人生で1番忙しないです。それが楽しいです。
(時折、体調も崩すけど!)
言葉でつながったチャンス
大学生という肩書きを手にした大きな1年でしたが、その裏側でも色んなチャンスをいただいた1年でした。
不登校新聞の取材を受けたり、中川翔子さんの本のインタビューを受けたり、NHKのラジオに出たり、とある不登校支援のプロジェクトに顔を出してみたり。。。
今までも大きなチャンスは山ほどありましたが、今年いただいたチャンスはとても大きいものでした。
繋げてくださった皆さんに感謝です。本当にありがとうございました。
自分の暗い過去を晒すというものは、果たして本当に誰かのためになっているのか。
ただの自己満足になっていないのか。
“悲しい子、不憫な子”という印象を持たれたいだけじゃないのか。
そう頻繁に思うし、きっと色んな方からもそう思われているんだろうなって節もあるんですが、
昔はきっとそうだったのかも知れません。
何が私自身の生きていく上での社会的価値になるのかって言われたら、何も無くて(今も無いけど)、暗い過去しか持ち合わせて居なかったが故に(視野が狭くてそう思ってた)、それを叫ぶしかなかったんだろうなと思うんです。
今はどうなんだろう。
私のその過去や実体験が誰かに価値があると思われているのであれば、それが誰かの力になれるのであれば、いくらでも差し出そうって思ったり、思わなかったり。
結局のところ、私がこの手の活動をやる時においての強みは圧倒的当事者意識だと思ってます。
同じ、若しくは似たような経験で苦しんでいる人の心を理解し、共感できること。逆に理解され、共感されること。
当たり前のようで、実際は簡単にできる人は少ないのだと考えると、私の経験は誰かの力になれているのかな。
それだったら、きっと昔の私は報われると思います。
少なくとも、昔から考えていた
「自分の力を、誰かの力に変えたい」
という目標は達成しているのかな。
もしもそうなら、ちょっぴり嬉しいですね。
いつか、
死にたがっていたあの頃の私に、
生きてて良かったよ
って言えるような人生にしたいですよね。
ヒカリテラスどうなん?
正直、ヒカリテラスは現状維持感が否めなくて、応援し協力してくださった方にはとても申し訳ないです。
内側の部分で色んな部分を変えている最中で、とても時間がかかってしまっているんです💦
(記事執筆や団体内のコミュニケーションの方法を試行錯誤してました。)
特にメディアでのインターンを通して、ロジカルに記事の構成を考え、執筆するということの大切さや、SEOの知識の組み込み方など、色々吸収してるので
ヒカリテラスにも持って帰りたかったんです!(もっとやる事あるのはわかってる笑)
ウェブ媒体の方ではだいぶ記事数が増えてきました。ライター数もちょっとずつ増えているからですかね。
ヒカリテラスでは、量よりも質、情報と同じくらい感情や気持ちに重きを置いた記事が多いので、記事は頻繁に出せないのが現状ですが、
記事公開ペースを安定させることと、記事担保のためにどのようにするのか、ここを考えてます。
また記事のバリエーションを増やすことも目標です。取材に行きたい!対談もしたい!笑
やっぱりお金が絡まない活動なのであれなのですが、メディア関係の方や「生きづらさ」関係の方がいれば、協力というか、話聞いてもらいたいです!
ラジオの方面も、しーちゃんとパワーアッププランを計画していきたいなぁと思ってます。!
月一ラジオのコンテンツにプラスして、YouTubeなどの動画、音声コンテンツを作りたいねっていう感じ!
私は文字系のコンテンツにしか詳しくはないので、動画コンテンツは勉強しないといけないけど!わくわく。。。
パワーアップを本格的に考えてるので、ライターだけでなく運営メンバーの補充も考えている最中です。
どうすれば、ヒカリテラスの力になってくれる人と出会えるかな???
来年は大学生2年目になるので、だいぶヒカリテラスにコミットできる予定!!!
頑張ります笑笑
19歳の抱負!
毎年毎年、誕生日を迎える度にきっとこう思っているんだろうけど、
よくここまで生きたなぁ、
やっとここまで来たかぁ、
とか思うわけです。
この前、インターンのライターチームのご飯会に行った時に、
「19なんてまだまだだよー」
って笑われてしまったんだけど。
平和な日本で19になるまで生きていけるのは、だいぶ容易かと思うんですが、
それでもやっぱり、ここまで生きている現実は必然ではなく、奇跡と奇跡が積み重なって出来た尊いものなんだなぁと感じる今日この頃です。
確かに色んなことはあったし、死にかけたし、絶望もしたけど、
私はラッキーで、色んな人に助けられ、支えられて、こうやって生きてるんですよね。
だから、今も社会に生きづらさを感じて苦しい思いをしている人の力にやっぱりなりたいと思っていて。
私を生かしてくれた人がいたように、生きていく光を与えてくれた人がいたように、誰かの生きていく上での力になりたい。
そして、自分自身でも私らしい幸せな生き方をクリエーションしていくのと同時に、
周りにも、その人らしい幸せな生き方をクリエーションする応援もしたい。
だから、勉強して、動くんです。
幸せな生き方、健やかな生き方とは何か。
自己肯定感や自己効力感を高めるには。
生きづらさを認知してもらうには。
自殺予防因子や自殺危険因子について。
生きがいや生きる希望とはなんなのか。
何を以て幸せで、美しいのか。
そこに政治学科での学びが一見絡まらなそうに見えても、きっと結びつきます。
政治は社会をつくる箱だって思っているので。
うん。
19歳は、
今こうして生きていることに感謝し、
学び、思考し、行動して、また学ぶサイクルをぐるぐる回していく1年間にしたいです。
そして、私の自分軸をさらに大きく太くしなやかに成長できるような1年間にしたいです。
あっという間に、大人までもう少しなんですね。
昔の私は、どんな未来になると想像していたんだろう。どんな大人に憧れていたんだろう。
漠然と素敵な未来になるって信じていたのかな。
色々あったけど、今は昔思っていた未来よりも、もっともっと広く自由だなって感じてます。
どんな大人になるんだろう。私。怖いけど楽しみです。
私が考える素敵な大人になるための準備を、ゆっくりゆっくり始めていきますね♡
これまで出逢ってくれた多くの方に大きな愛を♡
いつも、暖かく見守ってくださってありがとう。
たくさんの感情をくれてありがとう。
幸せであることを祈ってくれてありがとう。
ちはる
「いのち」の使い方
こんにちは〜!ちはるです。
今日は、言葉の発信地ヒカリテラスのオンラインミーティング(みんな忙しくて今日は1on1だったけど!)でした。
その前に、憲法のレポートちゃちゃーっと終わらせて、いじめ自殺に関する本を数冊読んで、ヒカリテラスの事業説明資料を作って〜。
割と充実した一日でした。
お家に引きこもりんデーだったから、疲れもちょっとで済んだし!ゆっくり眠れたし!
今日のミーティングは、私がとても信頼している後輩と2人っきりで色々話したんですが、
彼女からヒカリテラスの話を聞いて、本当に泣いてしまって、感動で…!!
「言葉の発信地ヒカリテラス」という大きな夢物語へ一緒に歩いてくれる仲間は、本当にゆっくりではあるものの、確かに付いてきてくれている、引っ張ってくれているんだなって思いました。
だから、その思いに応えられるようになりたいし、一緒に素敵な未来を見られるように頑張ろうって思った次第です
今回は、「いのち」についてちょっとお話したいなって思ってます。
「いのち」を大切に使おう
私の夢の1つは
「生きてて良かった」って思う瞬間をたくさん発見すること
なんです。実は。
自殺できなくって、生きるならめいっぱい生きよう〜って思った日が、私の人生のスタートで、
その日から
「生きてて良かった」と思えるような人生にすることが私にとってのライフミッションになりました。
だから、「生きる意味」を見つけること、「私らしい人生」を作ること、は私にとっての永遠のテーマなんです。
これまでたくさん、「生きるとはなにか」「人生とはなにか」って頭をぐるぐるとさせてきたけど、
哲学や宗教に触れてきたけど、それっぽい答えはあまり見当たらず、
社会を見渡しても、大人の表情を見ても、結局よく分からず、
「生きるとはなにかって答えは自分自身にあって、人生とはなにかって答えは私が死ぬ時に分かるんだろーなー」
って思うようになりました。
それでもやっぱり「生きるってなんだろう」って考えることは尽きないんですがね。
なんで神様は私に「いのち」を授けて、なんで私は生かされているんだろう。
そんなことを思う日もあります。
神様の行動は必ず意味があるとするならば、私になにか使命を与えるために「いのち」を授けたんだろうけど、
私は清らかな心の持ち主じゃないから、神のお告げは聞こえないし、何の使命かも教えてくれません。
だからもう、好き勝手に解釈しちゃっていいんじゃないかなぁとか思ったりしていて。
神様に授けられたこの「いのち」は、どちみち私の所有物なんだから、私のために使おうと思ったんです。
だからこの「いのち」は、
私が思う幸せな生き方を作っていくために使おう、私がこの「いのち」が尽きる寸前に、「生きてて良かった」って思えるために使おう〜って決めたんです。
それがちょうど一年前。
京都のおじいちゃんが亡くなって、いのちは有限であることを肌感覚で理解して、人生100年時代と言われても実は短いことを再確認して、
あー私、このいのちを有意義に使う生き方をしないといけないなぁって思ったんです。
結局もう、自殺という選択肢は選べないし。
「いのち」を私らしく使うには
私ね、そこら辺の周りの人がいう
「いのちを大切に!」がよく分からないんです。
そりゃ、「いのち」は大切ですよ?なかったら生きられないし。
でも、ただただ一般常識として、「いのちが大切」論が出回ってるから、 そう言ってるだけで、本当に何で「いのち」が大切なのか、わかってない人の方が多いと思うんですね。
かと言って、私も分かるわけじゃないんですけど。
私が思うに、
「いのち」が大切だから、死んではいけない。
ではなくて、
「いのち」は大切だけど、有限なものだから大切に使っていこうね。
だと思うんです。
だって人間、いずれ死ぬじゃん?
それなら、その「いのち」は自分自身のためにめいっぱい使ってあげたいじゃん?
って思ったわけです。
超絶不謹慎で申し訳ないんですがね。
それで、私は神様から授かった「いのち」を私らしい人生を送るために使おうと思って、
今、やりたいこと、知りたいことを、赴くままにチャレンジ、学んでみています。
社会で生きるのが生きづらいから、それを解消するためにはどうしたらいいか分からないから、
言葉の発信地ヒカリテラスを立ち上げて、社会の「生きづらさ」を勉強している。
それに付随して、「生きづらさ」と「自死の問題」が繋がっているから、「自死の問題」について勉強している。
「不登校」だった過去があるから教育にも興味があるし、「生きづらさ」って人と人の問題だから、「心理」にも関心があるし、
って感じで沢山たくさん勉強してます。
沢山勉強して、でもそれは全然苦しくなくて!
色んな知識を身につけると、人生への視野がぱーって拓けてくるんです。
私らしい人生の答えはまだまだ見つかりはしないけど、
見つかってもらっては困るけど、
少なくとも「生きてて良かった」に繋がる人生のルートは沢山あるんだって、漠然と信じることができているので、
この「いのち」の使い方は、割と正解だなって思ってます。
きっと、「いのち」を私らしく有意義に使うことができてると思います!
逆に、なんか生き急いでるなぁって気分になる時もあるけど、
たまにはゆっくり何も考えずにだらーっと過ごす日々も人生にとっては大切だし、神様も許してくれるだろうし、
うん、緩急を大事に過ごしていきたいですね。
(自分の都合で判断してるけど、それくらい緩くていいと思ってる笑)
私でも、もう何書いてるか分からなくなってしまったけど。(笑笑)
せっかく授かった「いのち」、
私は、
私が思う幸せな生き方を模索して作っていくために
「生きてて良かった」って思える人生のために
大切に使っていこうと思ってます。改めてそう思いました。
P.S.
今年の誕生日は、単純にお祝いされる誕生日ではなく、
私がここまで生きていることに感謝し、人生でお世話になった人に感謝する1日にしたいです。
おやすみなさい!
きっと恵まれてるんだと思う。
こんにちは!
12月になってコートとマフラーがないと寒さが厳しくなってきました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
私は絶賛、中だるみ太郎を極めております。
ずっと体調が優れなくて、極めつけに現在進行形で風邪をこじらせてます。
ちゃんと治しますね…笑
大学に入って、だいぶ周りの人間関係を理解してきて、
楽しいっちゃ楽しいけど、ぬるま湯に浸かってるような平和ボケしてる日々を過ごしてるような気がしてしまって、
人生が薄っぺらいというか、つまらないというか。
これは生き急いでいるのかな。
当たり前であることは、当たり前でないことを忘れないように日々過ごしていこうと思っているんだけど、思わず忘れてしまいそう。
自戒も込めて。
今日は、恵まれてるんだなぁって思ってるよって話をば。
平和ぼけ。
言葉の発信地ヒカリテラスなり、まぶぃーずなりで活動したり、
「生きづらさ」だったり、「社会的マイノリティ」だったり、「自死の問題」だったりを調べたり勉強したり、
そうやって繰り返していると思うことがあって。
「私は恵まれてるから今もこうやって生きているけど、そんな人間が『生きづらさが〜』なんて発信しても届くのだろうか。」
そんなことを考えてます。
でも、そんなことを考えながらも、
私がやらないときっと私が納得いく生き方を送れないだろうし、
恵まれているからこそ出来ていることなのかもしれないだろうし、
って思いながら過ごしてるんですが。
それに日々、大学に通っている人が多いコミュニティに属していると
大学に通えることが当たり前で、
適当にバイトしてインターンして、私腹を肥すためのお金を稼ぐことが当たり前で、
寒ければコートが買えて、お腹が空いたらご飯があって、雨が降れば帰る家があることが当たり前で、
今いる環境が当たり前のように思えてしまって、恵まれすぎていることを忘れてしまいそうで。
平和ボケしてるっていうか、そこそこの幸せのぬるま湯に浸かってるような気分になります。
本当にそれでいいのかなって。
私はこのまま平和ボケしたままで死んでっていいのかなって。
お風呂の中とか、帰りの電車の中とかで、
ずっとずっと考えていて。
(これこそ平和ボケなんだけど)
私にとって当たり前にある環境や機会が、
他の人にとっては当たり前とは言い難い状態で、
当たり前じゃない環境にある人を憂うわけではなくて、
ただただ、私が恵まれている環境に生きていることを、当たり前のように悠々と生きている今に
ものすごくムカついてる。
きっと、私の周りの人々も悪気なくそのような環境でいられることを当たり前に思っているんだろうなーって思って、
みんな一緒だからいいじゃんって自分を甘やかしてしまいそうで、
それもなんかモヤモヤっとしていて。
そんなムカムカやモヤモヤが溢れすぎてる今日この頃です。
出逢った祝辞の言葉
今年の4月、上野千鶴子さんの東大入学式での祝辞が色んなメディアでニュースになり、色んな意見が色んな場所で巻き起こりました。
男女平等やジェンダーの話が話題にあがりましたが、私が注目したのは少し違う場所でした。
「娘の翼を折らないようにしてきた」
少し前に「女子教育」の必要性を訴え、ノーベル平和賞を受賞されたマララさんのお父さんが、彼女をどのように育てたのかと聞かれた時に答えた言葉です。
人生を歩んでいく上で、諦めたり、挫折したり、といった経験はあると思います。
それに、女だから、○○だから、と頑張ろうと思っても、周りからその翼を折られてしまうことだって無くありません。
上野千鶴子さんの祝辞では
「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
という言葉があるように、進路やこれからの人生を考えていく中で、簡単に翼を折られてしまうこともあるのです。
それは、男だから、女だからだけではなく。
病気や、家庭の経済環境、他にも色々な理由があって、翼は折られてしまうのです。
私はこうやって大学に通えているけれど、
「家にお金が無くて通えなかった」
「親に行く必要が無いと言われてしまった」
「病気が進行しちゃって通えなかった」
大学やその先の行きたい進路があったのにも関わらず、様々な都合で進めない人の声を聞いて、胸が苦しくなりました。
私自身がなんの不自由も無く、簡単に大学に通えてしまってること。
少なくとも望んで入学した学校のはずなのに、サボったり、本当はこんなところ行きたくなかったって言ったり、する人が周りにいること。
たかだか、運が良かっただけ、環境や機会に恵まれていただけで、
のうのうと生きて居られてしまうこと。
その裏で、たくさんの涙を飲み込んだ人や、翼をおられてしまった人がいること。
自分自身の努力でここまでやってきたと思ってきたけど、
それはほんの少しで、ほとんどは翼を折られない環境に居られたこと、たまたま機会に恵まれすぎていたことが根本にあること。
色んなことが頭上に浮かびました。
とても苦しかった。
でも祝辞の終盤、この言葉を読みました。
そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
この言葉は東大の祝辞で、東大の新入生へ向けたメッセージですが、
私にとって、すごく大切な言葉のように思えました。
恵まれた環境と機会を手にできたこと、それは私だけの力によって出来たことではなく、
たくさんの人の努力と、思いと、ラッキーによって、手にできてしまったもの。
それらをどのように自分自身の力としていくか、恵まれたことで得た力をどのように使っていくかがとても重要だと。
これまでも、私はラッキーでしかないって言ってきたけど、そんなこと言ってる暇はないんですよね。
如何にそのラッキーを自分自身の力にしていくか、ラッキーで終わらせないか。
そして、その力を自分のためだけではなく、異なる境遇にいる人を貶すためだけでなく、
異なる境遇に居る人、辛い苦しい境遇に置かれている人と共に生きるために、手を差し伸べられるか。
きっと、それが大切。
恵まれた環境、恵まれた機会を当たり前だと、胡座をかかずに、できる人間になりたいですね。
それでは。をば。
やっぱり「居場所づくり」に関わりたい。
こんにちは!
バタバタ忙しなく動き回る日々が続きます、身体は追いついてないです。笑
皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
中々、ブログを書く時間がなくて、とても悲しい。かと思いながらも無理やり書くのもなんか違うなぁとも思って、時間だけが過ぎていく……笑
Twitterは気軽ですけど、書けないこともありますね。たくさん。()
だからこそ、ここで書きたい話が募っていくなぁ。
今日は、私の原点でもある「居場所づくり」についてお話したいなって思ってます。
「生きづらさ」を和らげたいって話。
私がこの「居場所づくり」というものをはじめようと思ったきっかけは、社会にはこびる「生きづらさ」からでした。
人と比べて上手に生きることができない自分に苦しんだり、
人と少し違う特色があるだけで壁を作られてしまう冷たさを目の当たりにしたり、
何かわからない心のモヤモヤに生きる力を吸い取られたり、
「不登校」になったり、「引きこもり」したり、色々やらかしたけど、きっとそれらはなんでもなくて。
私は、よくわからない社会の何かに「生きづらい」って思いながら、18年間ずっと生きてきました。
それがすごく嫌で仕方がなかった。
ずっとこの生きづらさに怯えながら死んでいくと考えると、今すぐ死にたくなった。
でも、頑なに死に損ないのプライドみたいなものがあって、もう自分で死は選択できないんですよね。
どうせ生きるなら、生きてて良かったって思いたいんです。今でもそう思って生きてます。
でも、普通に社会に飲まれるように生きていたら、そんな風には思えないだろう。生きづらさに怯え続けるだけだろう。
ぐるぐると考えて、ブログをはじめて、ライターをはじめて、それでもなお考えて、
行き着いた場所で出会った仲間と、ひょんなことからはじめたのが「居場所づくり」だったんです。
私はその活動が好きで、のめり込みました。
そこで知ったのは、
生きづらさは、社会的マイノリティや人とは違う特色、障害や病気を持った人だけが抱える感情ではないこと。
何気ない顔で生きている人だって、生きづらさや自死を考えるほどの苦しみに苛まれている可能性があること。
生きづらさは誰かの杓子定規で測れるものではなく、一人ひとり違う形を持っていること。
たくさんの人が「生きづらさ」を抱えている、それを吐き出せない人もいる、「生きづらさ」が限界を超えて精神疾患を患ったり、社会と関わることを辞めてしまったり、自死を選択してしまったりする。
まだまだ苦しい現実があることは分かっているけど、当時の私にとっては激しく苦しい現実でした。
でも、なにか明確な理由は無いけど、「生きづらさ」を解決したいと思いました。
まずは何をもってして、「生きづらさ」を解決すると言えるのかというところから考えました。
「生きづらさ」という感情は持っているといけないわけではないし、感情の問題だから無くすことは難しい。
「生きづらさ」の1番の問題は、抱えすぎてしまって最悪の選択や結果を引き起こすことだと思いました。
心の中の視野が広くない段階で自死を選択してしまったり、
抱え込みすぎて精神疾患を引き起こしてしまったり、お酒や薬に頼らなければ生きていけなくなってしまったり。
そうならないために、「生きづらさ」を吐き出し、和らげることが必要だと考えました。
そのためには、「生きづらさ」を吐き出せる場、その感情を受け止める場、共有できる場。同じ境遇の仲間と共感できる場。
そう、居場所です。
私は「居場所づくり」の活動に大きな期待を寄せました。
つくった「居場所」の問題点
しかし個人的には、つくってきた「居場所」は不十分でした。
居場所づくりにのめり込んでいた時は、感覚的にちょっと違うなって思いながらも何故かわかりませんでした。
本当に手を差し伸べたい人には届かないんじゃないか。
やっていることは現状維持でしかないのではないか。
当時のモヤモヤを今、もう1回考えてみました。
①「共感」「理解」だけでは「生きる力」は復活しない。(かも)
当時の私が感じていた「やっていることは現状維持でしかないのでは?」という思惑はあながち間違いではなかったようです。
「共感」「理解」は、自己開示をし、早い段階で「生きづらさ」をより小さくするためには重要な工程です。
しかし、「共感」「理解」は「この人たちなら大丈夫」という生きていく上での安心材料にはなるものの、それが「生きる希望」や「生き甲斐」に繋がるとは考えづらいのです。
人が生きていく上で、自分が自分として生きていても良いと思える「自己肯定感」も重要ですが、同じように自分が社会の役に立てている(自分が生きている意味がある)と思えることも重要だと思うのです。
②そもそも離れた地域の人は「居場所」に行けない
「生きづらさ」を抱えた人は、自分たちの周りだけにいる訳ではありません。
私たちの団体は関東を中心に活動していたこともあって、他の地方の人に手を差し伸べることができませんでした。当たり前のように「仕方ない」と思うことしかできませんでした。
私たちのように「居場所づくり」をしている人や団体は東京や大阪などの大都市にこそ、沢山ありますが、
ちょっとした田舎町などの都市が近くにない場所には、本当にないんです。
遠くから足を運ぶにもとてつもない労力とお金が必要です。
近くに居場所がないから、チャンスを掴めない人も沢山いることは、仕方ないのかもしれないけどとても苦しかったです。
③「居場所」にも合う合わないはある
「居場所」が全ての「生きづらさ」を和らげることができるとは思えます。
「居場所」と言えど、人が集まった集団なので、コミュニティの合う合わないはもちろんあります。あって当然です。
そして「共感」という点では、人間なので「共感」できないこともあります。
自分が経験したことでないと共感はできないと考えているからかもしれませんが。
私の団体は「不登校」と「引きこもり」を中心とした「居場所づくり」をおこなっていました。
だからそういう関連の話はできるし、共感もできるし、相談にも乗れます。
でも、虐待やDVなどの家庭問題、性的指向の話は、勉強して理解はできても、共感となると難しいし、話を聞くだけしかできません。
やはり、1つの居場所だけでは難しいのです。
だからって諦めるのは、何だかんだ惜しくて。
居場所づくりというものから距離を置いてみたけど、やっぱり魅力的でした。
人間関係のもつれだったり、人に傷つけられたりで、生きづらくなったり、苦しくなったりするけど、
それらは時間が解決してくれるわけでもないし、1人でいれば和らぐことでもないんだろうなって。
だから、きっと人と関わること、人生における仲間をたくさん見つけることで、
生きづらさも、生き方や人生も変わっていくんじゃないかって思ってます。
その1つのきっかけとして居場所が関われるかもしれないと思うととても素敵。
そして居場所から、仲間が生まれ、生きる希望が生まれたら、もっともっと素敵。
やっぱり私は、居場所づくりに関わっていたいんだなって思いました。
結局はこういうことがやりたい。!
やっぱり私、居場所づくりに関わりたいです。
生きづらい時や苦しい時には一緒に支え合って、
一緒に、未来を想像して、生きる希望を見つけて、
そういった人生における仲間を見つけられる居場所を
私は作りたい。
ただ必要としている段階の居場所ってあるだろうし、合う合わないもある、得意不得意もあるし、地域の問題もある。
きっと1つの居場所だけでは難しいです。
それに居場所はたくさんあった方が良いはずです。
だから、
全国各地にある様々な居場所と居場所を結ぶコミュニティを作りたいです。
もし居場所に来てくれた人に、もっと合う居場所があった時に紹介できるかもしれない。
もし場所が遠くて行けない人と繋がったとしても、より近い居場所を紹介できるかもしれない。
たくさんの居場所と居場所が繋がることで、差し伸べられる手も増えていくと思います。
そして、「居場所づくりをしたい」と思っている人にも手を差し伸べられると思っています。
また、居場所づくりに関わっている人同士で仲間になることもできます。
居場所づくりをしている人同士でも、居場所に集う人同士でも、仲間の存在ができます。
私の1番の夢は、共に生きる仲間をたくさん作ることです。
この居場所と居場所を結ぶコミュニティができたら、私たちにはたくさんの仲間ができることでしょう。
居場所づくりを通して、一緒に未来を想像して、生きる希望や自分自身の生きる意味を見つける仲間ができるって素敵…。
私はそういう素敵な未来を作りたいです。
生きる希望を見つけるためにも、
私が生きてて良かったって思うためにも。
あぁやりたいな。
まずは色んな居場所と出会いたいな。
夢が見つかるとこんなにも未来が鮮やかに見えるんですね。素敵だ。
深夜に書いてるから、自分でも何書いてるか分からなくなってきたけど笑
また、詳しいアイデアとか思いついたらブログにしますね。ふふっ
おやすみなさい!!
「生きづらさ」と「自死」の話。
こんにちは!
夏休み終わってから、ずっと読んでみたかった、読まなきゃいけないって思ってた「自殺対策白書」をようやく読むことができています。
最近になってポツポツと子どもの自死について、いじめについて、ニュースに出てくるようになってきました。
過去最大だ、過去最悪だ。。。でも数年前からずっと言われてきていたよ。。。
今日は「自死」について、所感みたいなこととか思ったこととか書きたくて、スマホから失礼してます。
結局、世の中生きづらいんだ。
色んなデータを見て、年齢別、男女別の死亡原因や自殺理由、10代の自死について……。
見れば見るほど、深刻なように見えて、でも実はそうでも無いかもって思えてしまいました。
15〜39歳までの死因要因の1位は「自殺」なんですね、その他の年代も、2位や3位に「自殺」と載っています。
医療技術が発達して長生きする人が増えたっていうのと同じ感覚で、
単純に昔なら亡くなっていたはずの病気も治るようになったから、様々な病気の死因が減って「自殺」が試飲で亡くなった人が増えたように見えたのかなとか。
考えようと思ったら考えられるんですよね。データや数字の難しいところです。
まぁそんなことを思っても、色んな国と比較すれば自殺する人が多いなぁって思うんですけどね。
個人的に見てて印象に残ったのは、原因・動機のデータ。
10歳代のデータを見ると圧倒的に高いのが、学校問題。いじめや学校内のコミュニティでの人間関係、進路の悩みなどが細分類の表では挙げられていました。
今の10代において、学校でのコミュニティで過ごす時間って、生活の大部分を占めているからこそ、そこでの悩みや不和はすごく苦しいですよね。
私もすごく苦しかったからすごく理解できる。当時は死にたいというより、存在ごと消し去りたかったし、これからの将来に希望が持てなかった。
学校でまともに生活できない、通えないってことは、社会でやってけないって誰からも脅されてたし、本当にそうだと思ってた。
次いで、健康問題、家庭問題となるわけです。
健康問題って、すごく重篤な病に侵されて生きてても仕方がないから自殺するみたいな感じをイメージする方も多いと思いますが、
健康問題による自死の殆どは、うつ病や統合失調症、依存性などの精神疾患なんです。
その発症理由を辿ると、学校や家庭、経済や勤務の問題に流れてくるわけですが……。
そして、家庭問題は、2018年で数値が上がってるように見えます。ここでも色んな問題が見え隠れしてますが、ここで上がってるのは今まで見えなかった家庭問題での自死原因が見えるようになってきたからなのかななんて思ってます。(いじめのデータと同じような感じで)
考えれば考えるほど、世の中ってどう足掻いても生きづらいなって。誰もが自死の選択をしてもおかしくない状態になってきたなって。
自殺対策白書のデータや、自死に関する本を読み漁ってみて、
自死が個人の問題として扱われる時代は終わって、社会問題として扱われはじめてきたなと思う反面、
他人事じゃなくて、社会にゴロゴロと転がってる問題になってきたなって感じました。
「生きづらさ」は単にマイノリティだから感じるものではなくって、
やっぱり、普通に学校に行って、仕事をして、家庭を持ってる人でも感じてしまうものなんだって。
そう考えると「生きづらさ」は社会に蔓延している。のに理解は追いついてない。他人事だから理解しなくてもいいやって思ってる人がいる。気付かない人がいる。
日々、そこに苦しさを持って生きてます。
現にとてつもなく、特に何も無いけど「生きづらさ」を持ってる身としては。
社会って、生きづらいなぁ。生きてるだけで褒められたいよ、しんどい中生きてるんだもん。
なんてね。笑
希望の喪失と生きる力と。
とある自死に関する本の中で(若干日が経ってるのでうろ覚えですが)、
「彼らは、死ぬエネルギーさえ持っていないために仕方なく生きている。」だからある意味、自死をする人には、自死するためのエネルギーが残っているということだ。
「自死」という行為は「生きたい」と思う気持ちの裏返しである。
という文章があって、納得いったけどすごく心が苦しかったです。
「生きたい」と思ってる。でも早くこの苦しみから開放されたいとも思ってる。だから残ってる生きる力を振り絞って、自死を選択する。
それすらできない生きる力が無い人は、ただただ苦しみから耐えるだけで、死んだように生きていくしか方法がない。
自死を選択した人も大きな苦しみを持っていたけれど、死んだように生きるって本来の苦しみよりも苦しみが増大されたように感じてしまいます。
その苦しみからも逃れることもできない、もはや何もできない、本当に苦しいです。
だからそういった人の中には、アルコール中毒や薬物中毒に陥る人も多いそうです。
生きる力を補給できないんですよね。すり減ってしまうだけで。
自殺対策基本法第二条、基本理念のところに
自殺対策は、生きることの包括的な支援として、全ての人がかけがえのない個人として尊重されるとともに、生きる力の基礎として生きがいや希望を持って暮らすことができるよう、その妨げとなる諸要因の解消に資するための支援とそれを支えかつ促進するための環境の設備充実が幅広くかつ適切に図られることを旨として、実施されなければならない。
とあります。
だから生きる力を補給するためには、生きがいや生きるための希望がなければ、補給ができないのかなと思いました。
確かに、自死は希望の喪失から生まれるものだろうし、自死は生きる力の裏返しなら、苦しみを和らげて、希望を見つけて生きてほしい。
実際、私も生きる希望を見つけるために生きてるようなものだし。
結局、「自死」の問題も、希望の喪失から生まれるものだと思います。
これから先、生きていても仕方が無いと思ったから「死にたい」と思ったし、
大人になるために頑張って生きてたのに「学校でやってけないなら、大人になって社会に出てもやってけない」なんて言われてしまったら、もう希望のへったくれもないから死にたくなったし。
希望の光がちょっとでも見えなくなったら、生きてても仕方がないって思うのも無理ないじゃん?って思ってます。
じゃあどうすればいいんだろう?
どうすれば自死が減らせるんだろう、どうすれば人生に希望を見いだせるんだろう。
そこが私にとって、1番の悩み。
何となく死ぬのを延長してる身分で、ずっと人生に希望を見出したくて、生きている意味を探したくて、何となく生きてるけど、これと言って生きる希望は見つからなかったので。
今を生きるのに必死すぎて、先が見えなすぎてます。正直。
でも圧倒的に、
まぶぃーずやヒカリテラスを通して一緒に生きる仲間を見つけたこと。
そして、私という存在が求められている環境、居場所があること。
が今の生きていく中でのセーフティネットになってます。
私は運が良かったと思います。こうやって生きる希望を疑問視してるけど見つけられているのだから。
こうやって生きる希望を見つけるほどの力やパワーがない人もいっぱいいて、補給も出来ずにずっと死んだように生きている人もいっぱいいるわけです。
私はどのように力になれるんだろうか。
彼らと一緒に生きていけるのだろうか。
そもそも、私はこれから先、生きていて、人生に希望や意味を見い出せるのだろうか。
今はまだ生きていけるけど、数年後ちゃんと生きていける未来が見えないな。
それくらい今の社会って希望が見えませんよ。正直。
これからの未来を作るのは私たちなんだから、もっと希望を見つけにサバイブして行かないといけないなぁ、じゃないと死んじゃうなぁと思いました。
それじゃぁ!おやすみなさい。
(何伝えたいかよく分からない文章になっちゃった。)