肩書きがなきゃ「生きづらい」って言えないなんておかしいよな。
深夜にこんばんは。
どったんばったんな大学2年の前期もそろそろ終わりを迎えそうです。そして1年強続けたライターの職を離れて、専業学生となりフリーダムに生きてきた1ヶ月も終わりを迎えます。
来週から新しい会社で、ライターやメディアとは一切関係ない面白いお仕事をはじめます。
バイトが2ヶ月も続かなくて、圧倒的社会不適合者だと思っていた、もはやネイルモデルでしか食べていけないんじゃないかとも思っていた、高校1年の私に言ってあげたい。
「意外とそんなことなかったよ!」
未だに家族や友人らに「お前はどこかに属して働けそうにない。」と言われていますが、私も若干そうかも~って思ってますが、そうじゃない世界軸も見えたらいいなと思います。
正直、就活とかしなさそうだけど。いやでも、ぼんやりとしてるんだろうな~。
最近の私の話はさておいて、今日は今までTwitterで息をするようにつぶやいていたことを書き留めておこうと思います。
生きづらさについてのお話、をば。ふふ。
「元不登校」「引きこもり」に甘えてた学生時代
私が抱えている生きづらさは昔から現在にかけて、様々なパターンがあり複合的。単純明快なものではありません。
きっと生まれつき、様々なものに対して敏感な体質と気質であることも生きづらい理由の1つ。
でも当時は、体質や気質について知識がないから、気にしいな性格で弱っちい人間だからと片付けていました。
昔、いじめと体罰で学校に行かなくなりました。人が怖くなって、学校が変わっても学校に行き続けることはありませんでした。人間不信で自分の部屋で引きこもってました。
高校を転校して、「生きづらい」という言葉を知り、「生きづらさ」を探求するようになりました。
その時、私の生きづらさは「不登校」「引きこもり」であったことだと話していました。
嘘じゃない、当時は思ってました。他の言葉も理由も見当たらなかったし、それも私の生きづらさを構成する理由の1つでした。
ぶっちゃけ、生きづらいの理由ではあったけど過去の生きづらさでした。
でも、肩書きが存在することは楽だったから、深く私の生きづらさを考えることなく話していました。
「不登校」と「引きこもり」は、生きづらさで繋がる仲間の間では理解されることの多いカテゴリーです。
生きづらさで繋がる仲間の間でなくても、「不登校」「引きこもり」というワードは社会的にも浸透していて、「生きづらさ」というエッセンスを付け足すにはうってつけでした。
それに「不登校」と「引きこもり」というワードを使うことで、深く詮索してこなくなることも私にとっては好都合でした。
年々私の根本にある生きづらさは、言語化できない生きづらさだと言うことを薄々理解していて、
話せないことは無言を貫くこと、それは生きづらさを持っていると理解されないと思っていたからです。
だから、「不登校」「引きこもり」という肩書きを表にぶら下げることで、私の生きづらさを表面的にでも認知してもらい、根本にある言語化できない生きづらさをひた隠しにしてきました。
でも大学生になって、「不登校」「引きこもり」という肩書きは圧倒的に過去の話となり、当事者の仮面を被れなくなってしまったので、この肩書きがあるから生きづらいとは言い難くなりました。
それ以上に「不登校」「引きこもり」が、現在の私の生きづらさではないとわかりきっていたので、言いたくなくなってきました。
肩書きを捨ててわかったのは、「生きづらい」の言いづらさ。
「不登校」や「引きこもり」が生きづらさの原因ではなくなったからといって、私の生きづらさは消えたわけではありませんでした。
むしろ、根本にある複雑で言語化できない生きづらさだけが残りました。
大切なお友達や周りの人間に共感しすぎて感情が苦しくなったり、
周りの環境のピリピリとした緊張やイライラとした緊迫した空気などの細やかな環境の変化に心苦しくなったり、
こんな感じで、ある程度言語化できて、理由が推定できるなら良いのですが、
何故かわからないけど、何かの不安に襲われてしまったり、
何故かわからないけど、突如ふつふつとした怒りや台風のような激しい悲しみがやってきたり、
そんな心の変化と理解できない感情が私の生きづらさです。私にも理解できない事象だから周りにも理解されるはずがないと思って、孤独感を抱くのも生きづらさの1つです。
よく分からないから、簡単に「生きづらい」とは言えないんです。
むしろ言ったところで、共感も理解もできる人間がいるのかと考えると少ないだろうし、明快な生きづらさを持つ人から非難されてもおかしくないしょぼさなのもわかるし……。
世の中、いくら「感情は比べるものじゃない。苦しみは比べられない。」と言ったところで、人間は比較をしてしまうのです。
「不登校」や「引きこもり」と言っていた時期でも
「あなたは恵まれているから幸せでしょう?」
「私の方が生きづらい。」
「あなたの生きづらさは大したことない。」
と比較されることがたくさんありました。
肩書きがあることでようやく表現し発言でき、共感理解されるのに、できたとしても比較されて受け止めてもらえないこともあります。
肩書きがなければ尚更だと思いませんか?
「生きづらい」が言えないまま、消えていく。
昨今の日本、言わずもがな「生きづらさ」で蔓延してると思います。大小問わずね。
だって「生きづらい」って言葉が週刊誌とか記事で出てきている時点でもうお察しじゃないですか。笑
でも「生きづらい」と言えないのは、
「生きづらい」というモヤモヤした何かが当たり前のことであり、我慢するのが当然だと思っているパターン。
自分自身の「生きづらい」は大したことがなく、周りの方が苦しいはずだから、我慢しなくてはならないと信じきってるパターン。
自分が感じている「生きづらい」がそもそもわからず、他人に伝えようとも伝える言葉がなく表現できないパターン。
様々な理由とパターンが考えられますが、生きづらさがあって当然とされるような境遇やカテゴリー、肩書きを持っていないと、「生きづらい」と言いづらい現状にあると思うんです。
生きづらさに関して何個かカテゴリがあると思ってて、(例:不登校、LGBTQ、毒親など)そこに所属できる肩書きがあるならいいけど、
— ちはる (@c_shv2) 2020年6月12日
ない場合は味方がいるかも分からない中「生きづらい」なんて言えないし、言って運が悪ければ「それは甘えだ」と叩かれる。口をつむぐしかないし、吐き出し窓もない。
正直、表現力とか伝える力の問題にはなってしまうんだけど。
— ちはる (@c_shv2) 2020年6月12日
カテゴリが使える生きづらさを持った人は、表現力や伝える力をショートカットして肩書きがあれば伝わるけど。
生きづらさの理由がわからない人、理由なく生きづらい人はショートカットが使えない故に表現力や伝える力が足りないときつい。
昨今の現状として、「やばい」「エモい」などの便利すぎる言葉が増えて、思考を巡らせなくても自分の現状にあらかたマッチする言葉が発せてしまう。
— ちはる (@c_shv2) 2020年6月12日
でもその調子で、理由のないorわからない生きづらさを持った人が発信しようとしても、ハマる言葉が出なくてモヤモヤしている印象はある。
肩書きの持てない、理由のない、生きづらさを叫びたい時、生きづらさを細かく分析する力と、その分析結果を人に伝えるための語彙力と表現力などが必要になってきて、そう簡単に発言できないんです。
そもそも発言する前に諦めてしまうんです。
肩書きのない生きづらさだって、理由のない生きづらさだって、理由を伝えるのが難しい生きづらさだって、れっきとした生きづらさです。
生きづらさは溜まっていけば、自殺危険因子に繋がってしまうかもしれません。
「生きづらい」と言えないことで、認められない、受け止めてもらえないことで、生きづらさは膨れて、破裂して、その人が消えてしまうかもしれない。
何も言えないまま消えていくことは、あまりにも惨いことです。
だから私は、どんな生きづらさも受け止められるようになりたいって思っているし、
肩書きのない生きづらさ、理由のない生きづらさ、理由を伝えるのが難しい生きづらさを持っている人が「生きづらい」と言うのを諦めないお手伝いをしたいとも思ってます。
いつか、そういう人たちに向けて、深く自分自身の生きづらさと向き合い、表現できる力を一緒に身につけるコンテンツを作ってみたいです。
ひとまず、今は何ができるのかわからないけど、私はつぶやきます。
「特に理由はわからないけど、兎に角生きづらい!」
それが許容されるような世の中になれば、ハッピーですね。
あなたの生きづらさが、誰かの勝手な物差しによって決めつけられることなく、叩きつけられることもなく、あなたの物差しで生きづらさを許容できますように。
「生きづらい」その感情を潰すことなく、テキトウな型に押し込めて形成することなく、ありのままの「生きづらい」を抱きしめてあげられますように。
おやすみなさい。