ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

肩書きがなきゃ「生きづらい」って言えないなんておかしいよな。

深夜にこんばんは。

どったんばったんな大学2年の前期もそろそろ終わりを迎えそうです。そして1年強続けたライターの職を離れて、専業学生となりフリーダムに生きてきた1ヶ月も終わりを迎えます。

 

来週から新しい会社で、ライターやメディアとは一切関係ない面白いお仕事をはじめます。

バイトが2ヶ月も続かなくて、圧倒的社会不適合者だと思っていた、もはやネイルモデルでしか食べていけないんじゃないかとも思っていた、高校1年の私に言ってあげたい。

「意外とそんなことなかったよ!」

 

未だに家族や友人らに「お前はどこかに属して働けそうにない。」と言われていますが、私も若干そうかも~って思ってますが、そうじゃない世界軸も見えたらいいなと思います。

 

正直、就活とかしなさそうだけど。いやでも、ぼんやりとしてるんだろうな~。

 

最近の私の話はさておいて、今日は今までTwitterで息をするようにつぶやいていたことを書き留めておこうと思います。

 

生きづらさについてのお話、をば。ふふ。

 

「元不登校」「引きこもり」に甘えてた学生時代

私が抱えている生きづらさは昔から現在にかけて、様々なパターンがあり複合的。単純明快なものではありません。

 

きっと生まれつき、様々なものに対して敏感な体質と気質であることも生きづらい理由の1つ。

でも当時は、体質や気質について知識がないから、気にしいな性格で弱っちい人間だからと片付けていました。

 

昔、いじめと体罰で学校に行かなくなりました。人が怖くなって、学校が変わっても学校に行き続けることはありませんでした。人間不信で自分の部屋で引きこもってました。

 

高校を転校して、「生きづらい」という言葉を知り、「生きづらさ」を探求するようになりました。

 

その時、私の生きづらさは「不登校」「引きこもり」であったことだと話していました。

 

嘘じゃない、当時は思ってました。他の言葉も理由も見当たらなかったし、それも私の生きづらさを構成する理由の1つでした。

 

ぶっちゃけ、生きづらいの理由ではあったけど過去の生きづらさでした。

でも、肩書きが存在することは楽だったから、深く私の生きづらさを考えることなく話していました。

 

不登校」と「引きこもり」は、生きづらさで繋がる仲間の間では理解されることの多いカテゴリーです。

生きづらさで繋がる仲間の間でなくても、「不登校」「引きこもり」というワードは社会的にも浸透していて、「生きづらさ」というエッセンスを付け足すにはうってつけでした。

 

それに「不登校」と「引きこもり」というワードを使うことで、深く詮索してこなくなることも私にとっては好都合でした。

 

年々私の根本にある生きづらさは、言語化できない生きづらさだと言うことを薄々理解していて、

話せないことは無言を貫くこと、それは生きづらさを持っていると理解されないと思っていたからです。

 

だから、「不登校」「引きこもり」という肩書きを表にぶら下げることで、私の生きづらさを表面的にでも認知してもらい、根本にある言語化できない生きづらさをひた隠しにしてきました。

 

でも大学生になって、「不登校」「引きこもり」という肩書きは圧倒的に過去の話となり、当事者の仮面を被れなくなってしまったので、この肩書きがあるから生きづらいとは言い難くなりました。

 

それ以上に「不登校」「引きこもり」が、現在の私の生きづらさではないとわかりきっていたので、言いたくなくなってきました。

 

肩書きを捨ててわかったのは、「生きづらい」の言いづらさ。

 

不登校」や「引きこもり」が生きづらさの原因ではなくなったからといって、私の生きづらさは消えたわけではありませんでした。

 

むしろ、根本にある複雑で言語化できない生きづらさだけが残りました。

 

大切なお友達や周りの人間に共感しすぎて感情が苦しくなったり、

周りの環境のピリピリとした緊張やイライラとした緊迫した空気などの細やかな環境の変化に心苦しくなったり、

 

こんな感じで、ある程度言語化できて、理由が推定できるなら良いのですが、

 

何故かわからないけど、何かの不安に襲われてしまったり、

何故かわからないけど、突如ふつふつとした怒りや台風のような激しい悲しみがやってきたり、

 

そんな心の変化と理解できない感情が私の生きづらさです。私にも理解できない事象だから周りにも理解されるはずがないと思って、孤独感を抱くのも生きづらさの1つです。

 

よく分からないから、簡単に「生きづらい」とは言えないんです。

 

むしろ言ったところで、共感も理解もできる人間がいるのかと考えると少ないだろうし、明快な生きづらさを持つ人から非難されてもおかしくないしょぼさなのもわかるし……。

 

 

世の中、いくら「感情は比べるものじゃない。苦しみは比べられない。」と言ったところで、人間は比較をしてしまうのです。

 

不登校」や「引きこもり」と言っていた時期でも

「あなたは恵まれているから幸せでしょう?」

「私の方が生きづらい。」

「あなたの生きづらさは大したことない。」

と比較されることがたくさんありました。

 

肩書きがあることでようやく表現し発言でき、共感理解されるのに、できたとしても比較されて受け止めてもらえないこともあります。

 

肩書きがなければ尚更だと思いませんか?

 

「生きづらい」が言えないまま、消えていく。

 

昨今の日本、言わずもがな「生きづらさ」で蔓延してると思います。大小問わずね。

だって「生きづらい」って言葉が週刊誌とか記事で出てきている時点でもうお察しじゃないですか。笑

 

でも「生きづらい」と言えないのは、

「生きづらい」というモヤモヤした何かが当たり前のことであり、我慢するのが当然だと思っているパターン。

自分自身の「生きづらい」は大したことがなく、周りの方が苦しいはずだから、我慢しなくてはならないと信じきってるパターン。

自分が感じている「生きづらい」がそもそもわからず、他人に伝えようとも伝える言葉がなく表現できないパターン。

 

様々な理由とパターンが考えられますが、生きづらさがあって当然とされるような境遇やカテゴリー、肩書きを持っていないと、「生きづらい」と言いづらい現状にあると思うんです。

 

 

肩書きの持てない、理由のない、生きづらさを叫びたい時、生きづらさを細かく分析する力と、その分析結果を人に伝えるための語彙力と表現力などが必要になってきて、そう簡単に発言できないんです。

 

そもそも発言する前に諦めてしまうんです。

 

肩書きのない生きづらさだって、理由のない生きづらさだって、理由を伝えるのが難しい生きづらさだって、れっきとした生きづらさです。

生きづらさは溜まっていけば、自殺危険因子に繋がってしまうかもしれません。

 

「生きづらい」と言えないことで、認められない、受け止めてもらえないことで、生きづらさは膨れて、破裂して、その人が消えてしまうかもしれない。

 

何も言えないまま消えていくことは、あまりにも惨いことです。

 

 

だから私は、どんな生きづらさも受け止められるようになりたいって思っているし、

 

肩書きのない生きづらさ、理由のない生きづらさ、理由を伝えるのが難しい生きづらさを持っている人が「生きづらい」と言うのを諦めないお手伝いをしたいとも思ってます。

 

いつか、そういう人たちに向けて、深く自分自身の生きづらさと向き合い、表現できる力を一緒に身につけるコンテンツを作ってみたいです。

 

ひとまず、今は何ができるのかわからないけど、私はつぶやきます。

 

「特に理由はわからないけど、兎に角生きづらい!」

 

それが許容されるような世の中になれば、ハッピーですね。

 

あなたの生きづらさが、誰かの勝手な物差しによって決めつけられることなく、叩きつけられることもなく、あなたの物差しで生きづらさを許容できますように。

 

「生きづらい」その感情を潰すことなく、テキトウな型に押し込めて形成することなく、ありのままの「生きづらい」を抱きしめてあげられますように。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

書きたくなった雨の話

唐突ですが、雨に濡れて帰りたいと思う日はありませんか?

 

私は傘を壊したくないのでしょっちゅう傘をささず、濡れて帰ることがほとんどなのですが、

意図的に濡れて帰りたいと思う日が沢山あります。

 

別に病んでるとかメンがヘラってるわけではないんですけど、

きっと単に雨が好きなだけなんだなと思います。

 

正直言っちゃえば、雨に濡れると、湿気で髪の毛が広がるどころか巻いた髪の毛もストンと落ちるし、肌もごわつくし、メイクもドロドロし始めるし、最悪なんですが。

 

そんなこと自体どうでもよくなりたい。が本音ですかね。

 

雨の匂いとか、頭とか腕に雨粒が落ちる感覚や音を感じていると、何もかもどうでも良くなるっていうか、ふわふわと自分から抜け出して無になれる気がするんですよね。

 

こんなことを書いてると、小学生の頃に賞を取ってしまった雨の詩のことを思い出します。

 

「雨の日大好き」

何を思ってそんなこと思って書いたんだろう。

学校の先生や両親によく思われることに必死だった頃の私らしい優等生チックな詩で胸が痛いです。

 

もう何を書いたのかはよく分からないけど、ただよく簡単に思ってないことを書けるなって思ってます。

 

割と私と関わってくれる人の多くは、私のことを「素直」や「正直」だと言ってくれるけど、ぶっちゃけ嘘吐き人間は抜けてないと思ってます。

 

人に嫌われたくないが故に出る嘘吐き、自分の立ち位置を守りたいが為の嘘吐き。昔の私はいとも簡単に嘘ばかりついて生きてたなぁ。

 

たった数年しか生きてない幼い頭の中で、組み立てた生きていくために必要な私のお面。私のお面を被るために嘘をつくのに必死でした。本来の自分は意地でも見せなくなかったんです。

 

あと、めちゃくちゃ斜に構えた可愛げの全くない子どもでした。中学1年の頃、副担任の先生から言われた一言が割とグッサリ刺さってます。

 

「あなたは考え方が大人だから、周りの子に合わせてたら疲れてしまうかもね。」

 

これを言われたのも、体育館の掃除の日、雨の日でした。

 

今日、高校の友達に

「高校の時よりテンション落ち着いたよね」

って言われて思い出しました。

 

私の素性って多分スレてる方が正解なんだろうなって。

 

 

話が脱線しましたが、

雨に濡れて帰ると、雨によって感じられる五感が、物思いに耽るのにちょうど良いんですよね。

 

上で書いた話は今日の帰り道で考えてたことのほんのちょっとです。

 

正直他にも、無個性コンプレックスの話や、私の生きづらさとか、歪んだ性格の話とか色々考えてたんですけどね。

 

最寄り駅から家まで徒歩20分ほどあるのですが、とても良い物思いの時間が過ごせたなぁと思います。

 

あーそうそう、雨に濡れて帰るのが好きな理由として、絶対に1人だからっていうのもありますね。

 

誰かと一緒にいると、心配して傘の中に入れさせてもらえちゃいますからね。

 

1人は孤独だと怯えてた時期を過ごしてきましたが、今は1人の時間も大好きです。

 

1人の時間が大好きになると、誰彼構わず人に好かれない方がいいって思えるし、自分の尺度で自分が好きな人間だけでいいし、自分自身で居られてほっとします。自分の心が収まってくような安心した気分になります。

 

 

本当は裸足で水溜まりの上を歩きたいんですが、さすがに出来ないので、雨に濡れて帰るだけにします。

 

正直、めっちゃ良いです。(昨今のコロナがうるさい時期なので、おすすめはしませんが。)

 

明日も雨なら、傘をしまって帰ろう。そうしよう。

 

それでは、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

なりたい私になれてる?

こんにちは!

大学がオンライン講義になり、N高を懐かしむ毎日を送っています。N高の授業システムがなんだかんだ良すぎて、N高に再入学したいとさえ思ってしまいます笑

 

オンライン講義はさておき、最近はあまりの精神衛生の悪さに付随してブラッキーで病む病むプリンな毎日です。

 

今日は私が憧れてた生き方について、綴っていこうと思います。

 

 

「人間らしい」に憧れてた

 

私は、これ以上自分を殺さずに生きたいな、自分らしさを保って生きていきたいな と思った頃から、人間の持つ様々な感情を 人間らしくて美しい! と感じて、

 

私自身もそんな人間らしい生き方をすれば、私を好きになれるかもしれないと、そういう生き方をしたくて頑張ってました。

 

 

このブログを読んでくださる方やTwitterを見てくださる方のほとんどは、私のことをとても素直です人間臭いなと思ってくださるでしょうが、

 

ブログやTwitterは、私の感情を表に出すトレーニングのようなものでした。

 

 

高校を退学するまでは、私自身の無個性コンプレックスや感情の鈍感さにずっと悩んできていて。

 

モヤモヤした感情はなんなんだろうと思ったり、うまく感情を消化できない、感情の波を察知できない私自身に苛立ちを覚えたり、それ故に味気ない人間であることに酷く落ち込んだり……。

 

「まじ私って生きてても死んでても変わんねぇな。」

 

希死念慮があった高校1年よりも前から、死にたいなんて思わなかった頃から思ってました。

 

 

だから、自分の感情を表現したり、曝け出したり、伝えることが出来る人間に憧れを抱きました。

 

 

「感情があるって人間らしくて美しいな。」

 

とも感じはじめました。

 

 

 

私には表現できる技法が、書き言葉しかなかったから、ブログとTwitterでトレーニングしました。

 

私自身の持っている感情や考えていることを見える化するトレーニングです。

 

 

ブログを書いて、Twitterで呟いて、感情が高ぶって涙する瞬間が1番、私が好きな人間らしく居られたし、私が生きてると実感出来ました。

 

 

嬉しいことも楽しいことももちろん、苦しかったことや悲しいこと、全ての感情が溢れる一瞬いっしゅんが人間臭くて、大好きでした。

 

 

兎に角、人間らしく、様々な感情を殺さずに生きることに大きな憧れを持っていたんです。

 

 

昔の私に逆戻りした?

 

それでずーっとブログを続けて、Twitterでも書いて、時たま話す機会があれば話して、そういう生活をしていたら、

 

言葉が認められるようになりました。

 

それはある意味、私の感情や思考、人生が認められるような、そんな感覚がありました。

 

だから天にも登るかのように嬉しかったです。

 

高3までは。

 

考える時間も物思いに耽る時間もたくさんあって、湧き出てくる感情もたくさんありました。

 

だから言葉を紡ぐことを容易だったわけです。

 

最近になって、

考える時間も物思いに耽る時間も無くなって、目先のことにしか目が向かなくなっている、感情を見失ってる私ばかりが浮かぶようになりました。

 

「あれ、なりたい私に近づいてたのに遠ざかってる?」

 

感情を見ることが怖くて、蓋をすることが増えるようになりました。

 

 

社会では受け入れられないから。

 

見せることで人が離れていくから。

 

醜さに私自身が苦しむから。

 

 

でもそれは、昔の私がやっていた「仮面を被る」ことなんじゃないのって、また怖くなりました。

 

それに私自身が感じていた「持っている感情を認められない生きづらさ」を自ら倍増させている気がしました。

 

 

仮面を被ることをやめよう。

 

感情そのものを受け入れよう。

 

私を好きになろう。

 

そうやって決意した昔のことを忘れてたんだなぁって悲しくなりました。

 

でも、なりたい私というのは変わってはなくて。

まだまだ「人間らしい私になりたい」という思いは健在で。

 

 

不器用なりに、人間らしい通り越して人間臭く生きていた私が、正直とても恋しいです。最近。

 

 

ここ最近、 気分が落ちていて、前向きな言葉を書いて終わりにしようと思っても、気持ち悪くて書けないんですけど、

 

誰のための私でもないし、人生でもないんだから、私の向くまま、でも好きな私で生きていけたらなぁと思います。

 

 

こんなブログにする予定だったっけ?笑

 

まぁともかく、今日はこれにて〜!

 

 

「やりたいことはなんですか?」

「夢はなんですか?」

と聞かれたら、

『「生きてて良かった」と思える人生にすること。選択に納得できる生き方をすること。』

と答えます。

 

私はこれだけです。

 

なにか大きな野望があるわけじゃなく、

なにか大きな成功を掴みたいわけじゃなく、

 

ちょっとした幸せを心いっぱいにしたいだけです。

 

 

人目が怖くて、

何もかもを周りの判断に委ねたり、

自分の性格を繕ってみたり、

毎日自分の気持ちに×をつけたり、

自分の気持ちに真逆の色のペンキを塗ったり。

 

 

私は、他人に乗り移って、他人に押し付ける人生を過ごしていました。

 

 

それじゃあ良くないと思ったのは、学校に行けなくなった時。

 

「人生こんなんでいいのか。」

 

家族が寝静まった深夜、布団の中でゲームをしながら考えてました。

 

どうしたらいいか分からないまま、高校を辞めるまで続きました。

 

 

「人生こんなんでいいのか。」

 

 

高校を辞めるまで繕ってた将来の夢は

「海外で日本語の先生になること」

実際は

「早く消えたい」

でした。

 

 

嫌気がさしてた。

だから私の「人生こんなんでいいのか。」とずっと思ってた。

 

 

高校を辞めるちょっと前、

「自分が本当にやりたいことをやってみたらいい」

とアドバイスしてくれました。

 

 

正直、分からなかった。だから、探しました。

 

当時趣味は「洋楽を聴くこと、写真を撮った撮ること」で、

得意科目は「英語」だった。

 

でもそれは、気に入られるための手段で、本当に好きだったのかは分からなかった。

 

見つけたのは、ノート。文章を書き続けてた。だからライターになって、ブログをはじめました。

 

もし、ノートにイラストを描いてたら、そもそもノートが見つからなかったら、こんな私にはなってませんね。

 

 

そこから、埼玉の田舎では想像もできない鮮やかな世界を体験し、そこに居場所を持ちました。

 

関心を持ったのは、「不登校支援」と「居場所づくり」。ちょっとあとに「自殺防止対策」。

 

関心を持ったことをもっと考えたくて、色んな団体で活動しました。

 

でも正直、微妙だった。

 

「本当にこれで合ってる?」

 

怖かったから、色んな場所へ選択肢を増やしました。

 

就職について考えてみたり、

大学進学を考えて、特進クラスに入ってみたり、AO対策コースに入ってみたり、

はたまた非営利団体を立ち上げる路線を考えてみたり。

 

でも、「本当にこれで合ってる?」の答えは見つからないどころか、

どれも違う気がしてならなかった。

 

人生を考えられませんでした。

 

 

 

 

今も、人生なんて、将来なんて、キャリアなんて、考えられません。

 

 

大学にも入ってみたけど、これはある意味、一種の逃げです。

「高校辞める時にパパと決めたから。」

そんな言い訳をつけて。

 

 

言葉の発信地ヒカリテラスを始めたけど、生半可な気持ちじゃないけど、

「一生続ける覚悟はあるの?」

と聞かれた時、何も言えませんでした。

 

 

今必死こいて、「自死防止」や「自死予防」について、「居場所」について、「生きづらさ」についてを勉強してるけど、

もしかしたらパタッと辞めてしまうかもしれません。

 

 

 

多分、生きてる人みんなそうだと思うけど、これからの人生が決まるような決断って怖いんです。

 

だからできる限り、決断しないでいたい。

 

私もそうです。

 

 

 

だからと言って、やりたいことが無いわけじゃないです。

 

今やりたいことを、今やること。

その積み重ねが、私の夢に繋がると思ってます。

 

やりたいことをやり続けたら、やりたいことが分からず出来なかった私を幸せにできる気がして。

 

窮屈に感じていた私に、自分であらゆる物事を選択することが自由だと示せたら、満足できる気がして。

 

選択することが自由で、やりたいことをできるようになれば、

いくら失敗しても力になって、自分の選択に納得ができるかも。

 

成功すれば「生きてて良かった」って思えるかも。

 

 

だから、私の夢は

『「生きてて良かった」と思える人生にすること。選択に納得できる生き方をすること。』

です。

 

 

それだけでいいんです。

 

夢がそれだけなら、たくさんのことができるから。

 

 

 

 

リモートワークで心底メンタルやられた話。

こんにちは!

私のインターン先ではコロナウイルスの影響で、リモートワークになりました。

コロナで外出もしないし、それによって物欲も抑えられるし、でも仕事はするから収入もあるし、とてもラッキーです。

 

元々高校がN高だったので、オンラインで作業だったり、チャットでコミュニケーションだったりは慣れてたと思ってたのですが、

 

正直、なかなかそうでは無いみたい……。

 

リモートワークで「楽になった!」と言う声もあるものの、私自身はちょっとした「やりにくさ」や「生きづらさ」を感じています。

 

今回は、私がリモートワークで感じている「生きづらさ」って何なんだろう?と考えてみたいと思い、PCを開いてます。

 

(最近、インターンで記事書いて、ヒカリテラスで記事関わって、ここでもブログ書いてるんだから、なんか記事しか書いてない気がするなぁ笑)

 

リモートワークで感じる"生きづらさ"

リモートワーク全体的に"生きづらさ"を感じているわけではありません。

 

人の顔を伺ってしまいがちだったり、色んな物音に敏感な体質だったりするので、むしろ楽になったから部分もあります。

 

オフィスで働いてたら、‪周りに申し訳なくて、なかなかトイレに行けないし、メイクも直せないし、飲み物やお菓子を買いに行くのも気が引けちゃいます。

 

でもリモートワークになったことで、周りの目線がなくなり、トイレに行けるようになり、そもそも肌断食してるのでメイクはしないし、飲み物やお菓子も持ってこれるようになりました。

 

何が"生きづらさ"を感じさせているのかと言うと、おそらくオンライン会議です。

 

実は昔にツイキャス主時代があったり、言葉の発信地ヒカリテラスでもオンライン会議をメインでやっていたり、と人よりかは、オンライン会議に慣れていたと思ってました。

 

でも毎週金曜に会議が終わるたびに、どっと疲れと自己嫌悪がぐるぐるしてしまって、ベッドでずっと泣いてたり、暴飲暴食してしまったり。みたいな。

(会議が終わったらすぐ、シフト終わりだからできること)

 

正直何がそうさせているのか、うまく言語化できなくて、「またそうやって、サボりたいから理由付けでもしようとしてるんじゃないか」って問い詰めてたんですけど、心がキリキリして仕方ない……。

 

これまでの文化祭実行委員だったりヒカリテラスでのミーティングだったりと、比較して考えてみましょう。

 

人の様子を観察できるか

私がかろうじて現地での会議やミーティングでメンタルが崩れないのは、実際に人を見て、状況毎で様子が掴めることで、色んな対策が取れるからです。

 

そして、文化祭実行委員やヒカリテラスのミーティングが大丈夫だった理由は、人を感じるための情報量があまりにも少なすぎるからです。

 

文化祭実行委員では、週に1回、東銀座でミーティングする機会がありましたが、Slack通話でミーティングする機会もありました。

ヒカリテラスでも通話機能をつかってミーティングをしています。

 

音声だけでの意思疎通なので、そもそもの人の様子を察するまでの情報量がなく、気にせずにできたんですね。きっと。

 

しかしオンライン会議は、ラグやWiFiの都合で固まったりはあるものの、かろうじて人の様子を伺えてしまうし、

かと言って画面越しなので、上手に情報が汲み取れないこともあります。

 

要は少なすぎないけど、十分な情報量は得られてないんです。

 

だからちょっとした表情や言葉で、「あれ言っちゃいけなかったかも」「申し訳ないことしたかも」「やらなきゃ良かった」が生まれがち。

 

信頼関係の構築

私がインターンで所属しているチームは、2ヶ月前に決まったところ。今のメンバーの人とはあまりコミュニケーションが取れてません。

 

人間観察が満足いくまで出来てないので、うまく性格や思考が掴みにくいのです。

だから、「この人にはどうしたらいい」が通じなくて対策が取れない。

 

ヒカリテラスは、一応、私が加入前のコミュニケーションを取っていたり、加入後のフォローもすることが多いので、メンバーの性格や思考は汲み取りやすいです。

 

文化祭実行委員の時は、顔を合わせる機会も多いし、そのまま友達になるパターンも多いし、Twitterやインスタなどの情報も多いので、すぐに対策を取りやすいです。

 

そもそも嫌われても大丈夫なのか

これに関しては、インターンでもヒカリテラスでも実行委員でも、円滑に物を進めるために、嫌われて大丈夫なわけないです。()

 

なぜ、この項目を取り上げたかというと、私自身、嫌われたくないと思うと性格を偽ってしまうことがあるからです。

 

文化祭実行委員でも、ヒカリテラスでもなんですが、明るいとかアグレッシブとか、しっかりしてるとか、そういう印象を持たれがち。

 

そういう風に見られようとしているから、あながち正解なのですが、

本来は全く違くて、根暗だったり、グルグル考えすぎてしまうネガティブだったりします。

 

現地での会議やミーティングに参加して、意見したりも最近多いのですが、

それは「これは何か言わないと私がここにいる意味ないのでは無いのか」と勘ぐってしまい、出てしまう行動です。まじです。

 

ただ文化祭実行委員の時は、私のそういう側面も理解してくれる人が何人かいたので、

絶大な信頼を持っていたし、安心感もあって乗り切れました。

 

リモートワークの"生きづらさ"を解決したい!

リモートワーク、最短でもあと1ヶ月以上あるんですよ。

2週間も経たないうちにこれだけメンタルやられてるので、何か対策講じないと、シンプルに死にそう……。

 

今、リモートワークで"生きづらさ"を抱えているものとしてオンライン会議があって、

要因として

  • 人間観察がしにくい環境
  • 信頼関係の構築がまだ十分でない
  • 故に性格を繕ってしまう

の3点がありました。

 

ひとまずとして、普段の業務中から汲み取れるメンバーのお兄さんお姉さん、社員さんのタイプや思考を汲み取り、慣れる。

 

それだけだと不安要素がありすぎるので、会議の前に話すことをまとめてそれだけに集中しようと思います。(カンペを作ろう)

 

性格を繕ってしまうのは、もうクセなので仕方ない。治そうと思うと逆に不安になってしまうので放置します。

 

作業する分には良いのですが、オンライン会議だけは難しいですねぇ。

 

すぐに順応できるわけではないので、試してみて、結果を見て、練り直してみたり、継続してみたり、やってみるしかなさそうです…。

 

 

うわぁぁぁ、強く生きるぞーーーー。

 

 

それでは!!!

 

 

 

溢れたものしか与えられないよ、ね。

こんにちは。

今日はみんな自分を大切にしてねって話。かくいう私も大切にしなきゃ〜って思いながら、できてるか微妙なんだけども。

 

 

私の周りには、素晴らしいことに誰かのためになりたい、自分ができることで誰かの力になりたいって思う人が多いんです。

 

でも最近、そういった人たちが苦しい思いをしている姿に心苦しくなってます。

 

そもそも、新型コロナウイルスの影響で、外出ができなかったり、仕事にいけなかったり、社会全体がイライラピリピリしていたりと、

 

自分のことだけで精一杯になってしまっているから、仕方ないことなんですけどね。

 

だから、申し訳なる必要もなくって、むしろ心配〜って思ってしまう最近です。

 

こんなことが起こってる今だからこそ、他人を思いやる気持ちに大切にしようという人たちが大勢います。

 

正直、こんなことが起こってる今だからでなくても大切なことです。本当に。

 

でもね、それは自分をすり減らしてまでやることではないって思うんです。

 

 

例えば、バケツの中に1日を生き延びるための水を貯めるとして、全部貯まらなければ充分に水分が得られないとします。

 

自分のバケツの中には半分の水、周りの人のバケツには少量の水。

 

「申し訳ないけど、水を分けてくれませんか?」と言った人にお水を分け与え続ければ、自分のバケツには水は残りません。そうすると、生きていけないですよね。

 

それは美談として、周りの人からは感謝されるかもしれないけど、自分は死んでしまうかもしれない。

 

 

そこまでして、周りの人のためになろうとするのは危険だと思いませんか?

 

 

バケツの水をメンタルにしても同じことが言えると思います。

 

私の周りには、どれだけ辛くてもしんどくても優しさを分け与えられる人もいますが、大変な負荷がかかっているはずです。

 

自分自身が満たされている時はすんなりと優しさを分け与えることはできるのですが、

 

自分自身が苦しい状況下にいる時、優しさで満たされていない時は、優しさを分け与えることはできても、自分自身を削って分け与えているのです。

 

そんなことしていたら、自分自身を傷つけて、立ち直れなくなってしまいます…。

 

 

「いやいや、苦しい時こそでしょ。笑」

 

なんて思う方もいると思いますが、苦しい時でもたくさんの優しさを振りまける人なんて、そうそう出来ませんよ。笑

 

自分自身をすり減らしてまで、優しさを振りまくことが、美しいという人もいるかと思いますが、

 

あまりにも酷いと思います。

 

すり減らした自分自身は治ることも戻ることもないのに。

 

 

自分自身をすり減らしてでも優しさを分け与えることは出来るかもしれませんが、

 

基本的に自分のバケツから溢れたものしか与えられないと思っています。

まずは自分が満たされていなければ、簡単に分け与えられないのです。

 

 

だからどうか他人のためになりたいと思っている方は、

申し訳ないだなんて思わないでほしい。謝らないでほしい。自分を責めないであげてほしい。

 

 

そして、こんな時だから他人を思いやる気持ちを大切にしようという気持ちを押し付けないであげてほしい。

 

めっちゃ語弊が生まれると思うのですが、必要最低限のモラルや思いやりだけ持っていればいいと思うんです。

 

・マスクや生活必需品、食料は買い占めない。

・健康に気をつけて生活する。

・コロナに感染しないように予防をしっかりおこなう。

 

いき過ぎた押しつけは、多くの人を傷つけるし、誰も幸せになんかしません。

 

「高齢者の方が感染してしまうでしょ!」

「軽はずみな行動で誰かに感染させてしまったらどうするんだ!?」

「今みんな大変なんだから!」

 

言いたい気持ちもわかります。

でも、ただでさえ世界中が不安や恐怖でいっぱいの中、また恐怖を植え付けてどうするんですか?

 

本当に自分自身を大切にしてあげてください。

自分自身を幸せで満たしてあげてください。。。

 

そして満たされ溢れた時には、周りの誰かへ優しさを分け与えてあげてください。

 

こんな時だからこそ、押し付けられた優しさや思いやりよりも、

 

自分の中から溢れ出した優しさや思いやりで溢れる社会になればいいなと思ってます。

 

私もそういう人間になりたい。

 

 

それでは、おやすみなさい。!

 

 

 

1年経ったので紡いどくね。

こんにちは。

いつも自己満だけど、今日も自己満で紡いどきます。

 

ラジオ感覚でお読みになってくださいませ。

 

 

私は今、インターン先で一応ライターとしてお仕事しています。

高校の時にもライターはしていたのだけど、長くは続かなくて。

 

1年続いたのは、ライターとしてだけじゃなくて、働くことでも初めてのことでした。

 

この1年間、色んなことがありました。

慣れないことが盛りだくさんで、苦しかったり辛かったりも沢山ありました。

 

でも、その中で小さな嬉しいも沢山ありました。

 

まずは先輩という存在ができたこと。

私の人生において、先輩という存在がいた事はほとんどありませんでした。

 

中学校の時は陸上部に居たけど、10ヶ月で辞めて、学校にも行かなかったし。

高校はもはや1期生だったから、上の立場の人が居なかった。

大学に入ってからもサークルに入らず、インターンと言葉の発信地ヒカリテラス、他の活動ばかりをしていたので、先輩と関わりを持つ機会なんてありません。

 

だから、先輩がいる環境がとても珍しくて嬉しかったです。

 

それでも、年下だからと甘えてはいけない、年齢に甘えてはいけないと思うことも多くて、後輩らしくはなれなかったけど。

 

暖かく見守ってくれたり、可愛がってくれたり、そういう存在が居なかった私にとって、幸せな気持ちでいっぱいでした。

 

つい先日を境にたくさんの先輩が卒業されてしまったので、なんだか寂しいです。

 

 

 

それに頑張ってきたことが認められてきたのも嬉しかったです。

 

私は頑固な性格です。こだわりが強すぎるが故にこだわりを曲げたくはないし、妥協もできません。

 

昔はそれが仇になってなのか生産性がとても悪くて、色んな人に「質はいいけど執筆スピードがねぇ…」と言われてしまうこともあり、

あー私、ライター向いてないのかもなぁって思うことも多々ありました。

 

でも、月日が経ち、慣れで執筆スピードも上がり、たくさんの人から認められるようになってきました。

 

文章が好きって言ってくれる人が増えてきたのがとっても嬉しかったです。

 

そして運良く賞もいただいて、コアなチームいれてもらって。

 

見てもらえてるんだな、ちゃんと評価してもらってるんだなって嬉しくなりました。

 

 

ここ最近は、コアなチームに入ったことによるプレッシャーを人並み以上に感じてしまっていて、押しつぶされそうで精神衛生がかなり悪いのですが。

 

チームリーダーのお姉ちゃんと「絹豆腐メンタルから胡麻豆腐メンタルになる」と約束したので、心もつよつよになれたらなと思っています。

 

 

 

 

最後にね、私はメディアのお仕事をすることがずっと夢でした。

 

小学校の頃は、色んな雑誌を読んでは自由帳に絵や見出しとか文章を書いて、雑誌みたいなものを作るくらい憧れで。

 

不登校になり始めの時は、しょこたんの新聞記事を切り抜いて生き凌いでたくらいで、

 

高校の死にかけ寸前の時は、ライターになって記事を発信することが生きる希望になってました。(だから高校生編集部をはじめた。)

 

 

ライターなんか誰にだってできる仕事だ。

こんな若い時にわざわざ始める仕事なんかじゃない。

 

そんなことを言ってくる意地悪な大人もいたけど、私は高校生のうちからライターになって働いてる現状に後悔はしていないし、とても幸せです。

 

好きなことを仕事にして、憧れていたことをできているんだから。

 

できるだけ人生に妥協せず生きたいんです。

 

大学も行きたい。でも大学の専門だけじゃなくて色んな勉強がしたい。

生きづらさや自殺対策についての勉強や活動もしたい。

メディアの仕事がしたい。メディアを運営してみたい。

カラコンをつけてみたい。ウィッグをつけてみたい。

可愛いお洋服やコスメを自分のお金で買って身につけてみたい。

 

ライターだって、今そのチャンスがあってやりたいと思ったからはじめました。

 

高校生の時に、たくさんライターの面接に行って落とされてきたから。

 

だから、こうやってライターとして働いて一喜一憂できている今がとても幸せ。

 

 

とっっても幸せだぁぁぁぁぁ。

昔ならありえなかったけど、今はそのありえなかったことをできてて、人生って面白いですね。にっこり。

 

それではおやすみなさい。ぱおん。