ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

「将来の夢はなんですか?」

さくっと書きたい気分なので、早速本題なのですが、小学校に入ってから幾度となく将来や進路の希望調査みたいなのを聞かれることが多いと思います。

特にこの質問が多い。

「将来の夢はなんですか?」

私、この質問苦手なんです。将来の夢が無いわけでも、未来に希望がない訳でもないんですが。

 

こういった類いの質問って職業だけを求められてるケースが多いんですよね。

 

大学の進路調査、コース選択でまた苦手をぶり返しました。

 

AOの時は、将来性がウンヌンカンヌンとか言ってたので、将来の展望を語りましたが、本当は政治を勉強したいがために今の大学に入りました。

 

公務員になりたいわけでも、学校の先生になりたいわけでも、政治家になりたいわけでもありません。

 

資格の勉強もしていますが、その資格が必要な職業に就きたいわけでもありません。

 

こんなこと言ったら、周りの人から変な顔で見られそうな気もしますがそうなんです。

 

ただ、勉強したかった。

それだけで大学に入って何がダメなんだろう、最近はそう思ってます。

 

やりたい事はいっぱいあるし、私の手で解決し見届けたいなと思う事もいっぱいあるし、それらに大学での学びは大きく影響します。

 

でも、将来の職業に繋がるかと言えば繋がらないかもしれない。だから将来のために入ったというより、単なる興味で入った大学でした。

 

だから、毎回の講義は楽しいし、今の生活はちょっとハードかなと思う反面、今まで以上に充実もしています。

ただ、周りとの感情やメラメラ度の差についていけなくて若干の心苦しさや違和感を感じます。

 

「興味無いけど役立つから」「就職に便利だから」「大学でとけば就職は余裕だから」「大学でないと就職先ないから」

 

そんなオーラを感じてる、最近です。多くの人が感じていることでしょうけど。

 

 

大人になり、社会に出たら、働き、国のために税金を払うのですよ。

 

そんな風に教えられたけど、働き方も、お金のもらい方も、誰かの当たり前に縛られて、苦しさを感じながらなんて嫌だし、私がやりたいこと、見届けたいと思ってる分野で社会に貢献したい。

 

社会一般で「働く」ということも、社会に貢献する大人としての「生き方」「ライフスタイル」がどんなものかなんて分からないけど、

 

社会に貢献する人間として、社会に出る前に分かっておきたいし、自らライフスタイルを作っていけたらもっといい。

 

何も知らないまま、誰かの当たり前に流されるまま、これ以上自分の心を傷つけて、苦しめて、生きていくのはたくさんだ。

 

生きづらさを感じているのは、生き方が合っていないからかもしれないから。

 

そんな風に考え始めた頃から、そういう生き方をしたいと思っていました。言語化出来るようになったのはつい最近の事だけども。

 

そのために社会の仕組みとか、憲法とか、政治の歴史とか、勉強してるわけです。

 

この世の中で生きていく中で、社会の枠組みである法律とか政治を学べばきっと役立つ。

今、生きづらさを抱えながら生きてる人の強い盾と勇気に繋がる光になる。

 

だから、この大学4年間でいっぱい勉強したり、いろんな知識を脳内に刻み尽くしたい。

 

そんなメラメラモードで日々大学生活を送っています。

 

本当に頭から火を吹きそうなくらい、毎日忙しい。今まで毎日外に出る生活なんて送ったことなかったから。

 

でも、大学で日々新しいことを学んで、先生の言葉から色んなことを吸収して、友達と毎日笑って、インターンとして働く中で、また新しいことを発見する。そんな日々がありえないくらいに楽しいのです。

 

生きててよかった。笑

 

「将来の夢はなんですか?」っていう質問にはまだまだ答えられそうにないどころか、進路希望とかも考えるの難しいけど、

やりたいことを将来の夢として、言語化できるように人生勉強していきたいです。

 

 

※この記事、多分ずっと前に下書きに残してあったのを書き直していたので、だいぶグダグダです。

それでも最後まで読んでくださってありがとうございます❤

 

 

 

 

「東京」という居場所を手にしたら。

こんにちは!入学式が終わり、晴れて大学生です!(๑´ლ`๑)フフ♡

 

東京の大学に通うので、通学定期という夢のカードを手に入れました笑 これで東京に通えます。笑

すごく感慨深くて、少し昔、東京に逃げるように行っていた時期を思い出しました。

 

今日はそんな昔の話をば。

 

地元が怖い田舎もの。

地元にあまり良い思い出がなくて、引きこもりだった時期。

知り合いに会うのが怖くて、地元の空気すら怖くて、外に出ても「私はここの人じゃない」と暗示をかけないと怖くて、家にトンボ帰りする日もありました。

 

そんな時に手にした地元以外の地域に行けるチャンス。

 

青春基地の人に会うために新宿まで向かうことになりました。

 

電車にも10分しか乗ったことない、県外になんて行ったことないこれまでの私にとっては、有り得ないくらいに大きなチャンスでした。

 

駅までも怖くて歩けなかったのに、その日だけは足も心も清々しく軽く思えました。

 

電車の窓から見える地元の田園風景から混沌とした都会のビルの風景に変わっていく一時、一時が新鮮で心をときめかせたこと。

 

県境にある大きな橋を通った時に見えた、川の細かい波や、反射する太陽の光、澄んだ青い空に感動したこと。

 

多分いつまでも、忘れられないと思います。

 

これが、井の中の蛙が大海のほんの少しを知った瞬間。

地元の中や、中を経由しなきゃ、コミュニティがないと思っていた私にとって、大きな希望でした。

 

地元にいるのが苦しくても、ここに来れば、その苦しみから逃げられる。

だから、転校する前、した後も含めた高校3年間は、同じ県内に通う高校生の何十倍も東京に逃げるように通いました。

 

でも、お金はないので、何かにつけて用事を作ったり、何もせずにひたすらずっと歩き回ったり、人間観察をしたり、そんな日々。

 

それでも、私の中ではたくさんの発見があり、変わりたい自分になるためのアイデアを沢山もらいました。

 

「東京」が居場所になり変わったこと

これまで居場所について、再三語ったことがあると思いますが、東京も私にとっては居場所のひとつでした。

 

誰か味方がいるわけでも、場所が確保されてる訳でも無いけど、東京にいけば、何故か安心できて、たくさんのインスピレーションを貰うことができました。

 

特に東京で過ごしたことで、いろんな価値観や特徴をもった一人ひとりが共存し、同じ環境で生きているところを、その環境にいることで実際に感じることができたことは、私にとって大きな出来事であり収穫でした。

 

また誰にも干渉されることなく、やりたいことができ、私の考えたいことを考え、私の意見を大切にできる環境で過ごせたことで、私のままで居ていいと思えるようなりました。

 

そんな環境で過ごしたことで、一人ひとりが違うことが当たり前だからこそ、一人ひとりを尊重し合うことが大事だという思考を手に入れました。

 

協調性やみんなと一緒、同じレベルを求められる学校の空気感に置いていかれた私にとって、その思考は少しの希望と自信に繋がりました。

 

これらは、東京で出会った人たちが温かかったから、そしてたくさんのチャンスと出逢う機会が多かったからだと思います。全てはラッキーで、運が良かっただけに過ぎませんが。

 

きっと東京が居場所にならなかったら、今こうやってブログを書き、こんなことを書くこともなかったし、地元への思いが出てくることも、大学生になることもなかったはずです。

 

だから、このチャンスから得たたくさんのモノを確実に次に繋げていきたいし、私が出来ることで昔の私のように生きづらさを持ち、引きこもっている誰かのためになることがしたいんです。

 

今ある環境でどんな風に私がもらったチャンスを還元できるのか、まだまだ未知数ではありますが、考えて考えて挑戦していきたいです。

 

 

さて、今日は大学で初めての授業の日。すごくドキドキしてますが、楽しんできますね!

(時系列おかしい、笑)

 

それでは〜(*/▽\*)キャッ

 

 

 

 

行動の物差しはどこに存在するのか。

こんにちは!ちはるです!

高校卒業ロスがすごくて、大学生になる実感も湧かないまま、大学のガイダンスに行ってきました。

優しい子が周りに多くて、めちゃくちゃ安心.....!

インターンも、先輩や同期のお兄さんお姉さんがとても優しくて、最近は忙しいけどとても楽しいです!

 

今回は、行動の指標である物差しについて、最近いろんなことを思うのでそのはなしをば。

 

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

この言葉、恐らく私が小学校に上がった時から当たり前のようにボキャブラリーとして入っていた言葉。若いうちから知っている人も多いかと思います。

 

最近、行動の指標である物差しはどこに存在しているのか、どこに存在しているのがベストなのかを考えています。

どうしてかというと、安直に周りと同じようにしていれば間違いないと思っている人が多いんじゃないかと感じることが増えたからです。

 

例えば大人数のLINEグループで、自己アピールが多い人がいてその人を一人が責めたらみんなで袋叩きにする、一人がコミュニティのルールを破ったらみんなで破り始める、Twitterで一人が悪口を言ったら、それをに続くように悪口合戦が始まる。

 

悪いことだけじゃなくても、みんなが提出書類を持って行ってるから持っていく、みんながここに集まってるから向かうとか。

 

赤信号、みんなで渡れば怖くない精神はやっぱり、昔の昔から染みついているみたいです。私たちには。最近は少しずつ薄れつつある、多数派が正しいという考え方もまだまだ根深いのも関係はしていそうです。

 

どこで良し悪しを判断しているのか、自分の行動を何で判断して決定しているのか、どこを指標として、物差しとして行動しているのか。

 

多くの人が周りの誰かや、大多数を指標に行動を決定しているのなら、ちょっと怖い。

 

何も考えず、流されるまま行動することで、何も感じずに人を容易く攻撃できてしまうし、間違いであることに気が付かないまま、進んでしまうことだってあります。

 

また、その大多数の意見に固執することで、自分自身の幅を狭めたり、苦しめたりすることもあります。

 

だから、行動の物差しは自分の考えの芯の部分に存在しておくべきなんだと思います。

 

多数派であることだけで慢心しちゃいけない

この世の中、多数派のルートなら正解、多数派の意見が絶対だ、なんてことは少なくなりました。多数派であることで安心なんて言えなくなりました。

いろんな肌の色、いろんな性格、特徴、思考など、いろんなものを持ったもの同士が共存する世界で、お互いを尊重し合う世の中に変わっていっていますし、そのスピードはこれから更に増していきます。きっとね。

 

そんな世の中で、多数派であることに慢心していると、多数派という何かが無くなった時に、行動の指標の物差しを無くしたも同然になります。

物差しを無くして、どうやって善し悪しや行動を選択し決定するのか…。

 

多数派でいることは決して悪いことではないし、むしろよく有ることです。でも、周りと一緒だから、周りと同じだから、という安易な理由で行動決定する前に、一度、自分の物差しで考え、判断してみて欲しいです。

 

今やろうとしている事が、どんな影響があるのか、やった後どんなことが起こるのか、これは自分にとって正しい行いか。

 

多分じっくり考えれば、周りの意見があっても揺らがない自分の芯の部分が見えてくるはずです。

これは絶対にやらない、人に嫌な思いをさせない、自分の心が楽になる選択をする、など。

 

その芯を大切にしてほしい。そう最近はずーっと思ってます。

 

その自分の物差しが周りとメモリや大きさが違くても、周りから「有り得ない」と笑われても、それが自分の生き方になっていくはずです。

 

その考え方や選択が、自分自身の力になり、自信にも繋がっていくはずです。

 

そう信じて、私も自分の物差しを大事にしていきたいなと思います(* ´ ˘ ` *)

 

それでは〜❤

 

 

 

 

 

 

 

上書き、頑張ろ。

こんにちは!

 

先週あたりからぼちぼちお仕事をはじめました。

世の中的にはインターンと呼ぶそうです。緊張ではち切れそうなのですが、ご縁があって出来たことなので喰らい付いていきたいところです。

 

今日はそんな最近の話をしましょう。雑記みたいな!

 

適応力低めだなぁ。

新しい場所、新しい職場、みたいな環境って得意な人あまりいないと思うのですが、私は人一倍苦手です笑

昔、そういう日の前夜は、「行きたくないよ〜」と泣きじゃくっていました。

今でも、やっぱり怖さとか緊張とか抱きますし、「行きたくないなぁ」と思ったりもします。

現場に行くと、取り繕いのプロなのでそういった様子は見せないことの方が多いですけどね。(スクーリングで出会った子にコミュ力高いと言われ、心が痛くなった。)

 

以前、ライターとして働いていた職場でも最初の方は、ドキドキが止まらなくて、毎日お腹や頭が痛くなったり、前日ないたり、帰りの電車でも泣いたりと、傍迷惑なことをしていました。

(いや、最後の最後まで緊張はしてたな.....笑)

 

最近ようやくまた、ライターとしてお仕事をさせてもらえる機会ができ、お仕事をはじめて、以前の職場を思い出しちゃいましたね。

 

前はどうやって、適応してたっけ?って感じで。

 

というのも初日こそ、あまりこわばることは無かったものの、2日目の出勤の日、めちゃくちゃ怖くて!

 

どうしよ、どうしよ、まわりに迷惑かけたらどうしよう、お腹痛くなったらどうしようって。

 

家を出る前、フラフラになりながら準備しました。メンタルめっちゃ弱いですよね。笑

 

家出る直前に、下痢止めと痛み止めをポーチに突っ込み駅まで歩きました。

 

家から職場まで結構距離があるのですが、その間イヤホンをつけて何も聞かずに、仕事について考えてました。それくらい緊張しいで怖がり。

 

でも職場に着いたら、やっぱり怖さとか緊張はあったものの、そうでも無かったです。

 

周りのお兄さんお姉さんが優しく、先輩の方も明るく優しく接してくれました。

だから、ちゃんと挨拶も出来たし、困ったことも聞きにいくことが出来ました。社会人として当たり前だけど、私からしたら頑張ったと思います()

 

明日からぼちぼちシフトを入れて、本格的に頑張っていくので、気を抜きつつゆっくり慣れていきたいです。

 

仕事への恐怖心を上書き。

ところで、どこかの何かで読んだのですがトラウマ嫌なことに対しての解決法として、

良い思い出、良い経験を上書きするという方法があるそうです。

 

例えば、先生から体罰を受けたことで学校不信になった場合は、どこかで優しく接してもらえた先生と出会うことで、先生に対しての嫌な思い出上書きるみたいな。

 

私は実は、仕事と呼ばれる事柄が怖い時期がありました。

 

でも、私が好きな文章を書くことを仕事にし、お金をいただくことを経験したことで、仕事に対する恐怖心が薄れはじめてきました。

今でも、仕事という関係性での人との繋がりには怖さを感じることもありますが、今の職場で良い経験を重ねていくことで、恐怖心を払拭できたらいいなぁなんて思います。

 

トラウマとか嫌な経験とかって実生活で必要性がそこまで無いものなら、逃げ切れるし、代替案とかがあるけど、避けては通れないものも多いかなぁと。

 

特に人間関係とか仕事とか。

 

嫌なものはもう1回敢えて突っ込みたいとは誰も思わないけど、怯んでばかりでは進まないことばかりです。

 

痛いし苦しいこといっぱいあるし、正直疲れます。笑

 

仕事ってだけで、心が折れそうになります。笑

 

でも同じ内容でも違う環境なら、きっと大丈夫かもしれないって暗示かけて、頑張ってます。笑

 

今回の職場も、以前の職場と同じように雰囲気が良くて、ちょっと頑張れそうなんです!

 

あぁ、恐怖心を上書きできますように!!!

 

良かったら、心の片隅で応援してくださいね.....笑

 

 

 

幸せだと言える生き方は全て美しい。

こんにちは、卒業式が終わりました。

N高生として卒業について、卒業式について書きません。それらは、きっとただの節目に過ぎず、何も変わることはないから。

 

今日は、生き方について。

 

「逃げ」はれっきとした選択肢。

学校を辞める、仕事を辞める、休学する、長期休暇をとる、引きこもる、ニートになる、

こういった選択をすると、周りはこう言います。

 

「逃げたら最後だよ。」

「この先にはもう道はないよ。」

「逃げたところで何も変わらないよ。」

 

私が思うに周りで生きている人は、どうやら、逃げるという行為が嫌いみたいです。「逃げるな、戦え」という思考の方が多いイメージがあります。

 

多分、逃げたことがないからです。逃げた先を知らないからです。

 

私が学校に行かなくなった時、周りは必死に学校に戻すように、中学に行くように、全日制の高校に行けるように、と色んな事をしてくれました。

でも、その裏腹に、私の心は荒みに荒んでボロボロになりました。

 

頑張っても、努力して結果がついても、誰にも認められないし、やりたくない事を強いられて、誰のために何のために生きているのかも分からなくなりました。

 

見えない苦しみを与える何かに、立ち向かえば、立ち向かうほどに、心に傷がついて、芯が折れ、皮だけで繋がって何とか生きている気分でした。

 

でも、その環境から別れて、逃げてみたことで光が見えました。

その光に手を伸ばしたことで、逃げた先の道を見つけ、必死こいて切り開いた先が今です。

 

色んなことを、色んな人に言われたけど、

逃げた先に道はあったし、全然まだまだこれからだし、私の中で変わったことだっていっぱいあります。

 

だから私は逃げた選択を後悔していないです。

そして、自分の選択を信じて進めば道は切り開けるって信じるようになりました。(きれいごと気持ち悪いね笑)

 

この話で何を伝えたいかというと、「逃げるな、戦え」はただの1つの価値観に過ぎず、言った人の美徳でしかないってことです。

 

だから、チートのように扱われがちな逃げという選択肢はれっきとした1つの選択肢なんです。

 

どんな形でも幸せなら美しい

 

逃げという選択肢にしても、何にしても、生きようと思ったら、非難されることも、苦しいアドバイスをもらうことも、批判されることもあります。人生ですから。

 

でも、その人たちの意見を全部反映させる必要はないんです。

悩んだ時に経験者からの耳を傾けて、困った時にたくさんの意見を参考にすれば良いのです。

 

その人生を生きるのは、貴方しか居ないし、決定権を持つのも貴方だけです。

 

そして、誰かから褒められるような、羨ましがられるような生き方を、無理にしなくてもいいんです。

 

社会の声は時代と共に変わります。周りの人がすごいと言う生き方も変わっていきます。

だから、貴方が幸せだと胸を張れる生き方がある方向へ、それがどんな道でも歩んでいけばいいのです。

 

幸せだと感じられる生き方がそこにあれば、その生き方はどんな形であっても、美しいことに変わりはありません。

 

貴方の心と生命が健やかに過ごせているのであれば、きっとそれはステキな人生です。

 

私自身も、これから先、色んなことが待ち受けていたとしても、私の思う幸せを大事に、私らしい生き方を作っていきたいです。

私の中で、私が思う美しい生き方を研究したいです。

 

幸せで美しい生き方を求めて、挑戦する、挑戦しようとするステキな人に、これから先も幸せで美しい生き方であることを祈ります。

 

それでは〜♡

 

 

 

 

自己防衛

春から新しい生活が始まるとのことで、お部屋の大掃除と大断捨離会を行っているちはるです。

色んなものを捨てたくなる時期ってありますよね、思い出したくない時代の物とか特に。

 

今回に関しては、前向きな大掃除ですけど!笑

 

今日は自己防衛のお話をば。

 

自分を守るために何をする?

最近、謝りすぎてしまう人の心理状況について勉強しているのですが、色んな状況がある中で興味深いことを知りました。

謝りすぎてしまう人は、罪業妄想(自分自身を罪深い人と思い込むこと)を抱いていたり、自罰感情が人一倍強かったりとありますが、

プライドが高いが故に、誰かから怒られたり呆れられたりする前に謝って、自分自身が負う傷を少なくし、守ろうとする心理が働くこともあるそうです。人との衝突を避けるため、自分自身のテリトリーに踏み込まれないためという理由もあります。

 

どんな人間でも、薄かろうが厚かろうが自分のテリトリーを守る心の壁は存在してると思います。

だから自己防衛をするのは、意外と当たり前なんですね。

 

謝罪をしたり、距離をとったり、嘘をついたり。

 

まぁただ、それらは圧倒的に自己満足でしかなく、傍から見たらそれもまた複雑な気持ちにさせることもあるのかなぁと思うわけです。

 

嘘をつくことははなから信頼していない証拠ですし、距離を取ることは関わりたくないと遮断すること、謝ることにおいてはお互いに萎縮しがちです。

(昔は全部やってました♡)

 

自己防衛というものは、今どき大事です。

引きこもりになっても、そこにネット環境がある限り誰とでも繋がり、コミュニケーションが取れる時代です。

しかし、リアルな世界での世界観と似ていて、ガードを張らなかったら、苦しい関わりと出くわす可能性も高く、苦しい気持ちになる時もあります。

誰もが心に多少なりとも傷を持っていて、どこに地雷があるか、いつ傷がまた開くかわからないので。

 

ちょうどいい心の壁を築く

自己防衛は大事ですが、やりすぎは何事も良くないし、これもそうだと思います。

 

私も100%ダメージカットの壁を築き上げた経験(?)がありますが、そこで何を得たかというと孤独自分自身への不信感でした。

 

そりゃ、分厚い心の壁作って、嘘ついて、謝り通して、人と関わらなきゃそうなりますよね。普通。

周りに人がいない環境にいると、もちろん孤独は生まれます。

それに、自分の中の物差しでしかいろんなモノを解釈できなくなるので、頭が硬くなり、自分自身すら不信になります。

 

それは生きてく上で、とっても深刻な事態。

 

だから、思った。

ちょうど良い心の壁、自分自身の傷を守れるように、心を抉らせないようにするギリギリの壁を作れたら最高ですよね。

 

そこで、私は自己開示ではないのかなぁと思いました!

もちろん話してみなきゃ、どういう反応されるか、話すことでどんな影響があるのか、わからないので恐怖心はありますが。

 

もし仮に、話して嫌な気持ちになったり、傷ついたら、その人にはもう一枚ガードを張ればいいし、ついた傷はあなた自身が挑戦した勲章です。

 

でも、分かち合えたら、理解してもらえたら、少しずつ壁をとっぱらってコミュニケーションを取ることが気軽になるんじゃないかなぁと思ってます。

 

自己防衛によって壁をつくり、自己開示によって壁を壊す、この繰り返しによってちょうど良い心の壁を築き上げることができるのだと思います。

 

弱冠18歳の私には、まだまだちょうど良い心の壁は出来ていませんが、まだまだ分厚く重い壁を背負っていますが、自己開示と自己防衛を繰り返し、ちょうど良い心の壁を築き上げていきたいなぁと思います!

 

何事も実験、何事も挑戦ですので、コミュニケーションの方も頑張りたいです!新生活始まるので笑

 

 

 

 

 

 

コンプレックス

こんにちは、今日は学校のお友達が開催しているイベントに参加するために電車に乗ってます。

 

根っからの引きこもり体質らしく、誰かと会う、何かミーティングするっていう重要な用事以外、なかなか外に出ようとならないので、今回は結構珍しいような気がします。

 

珍しい日をさらに珍しくしようと、髪の毛を巻き、ヘアアレンジをしました。私の髪の毛があまり好きではなく、こだわりがなかったのでかなりレア。

ちょっと前に出てる頬骨が嫌で今まではシェーディングを入れてたけど、やめてみました。

今までは、似合わないからと可愛いピンクのリップも躊躇してましたが、今日は付けてます。

とても珍しいし、外見も内面もコンプレックスだらけだなぁと改めて感じる今日です。

 

ところで、今回はコンプレックスの話がしたく、電車の中でスマホから書いてます。

 

人生全部がコンプレックス

昔のブログを遡ると、人生全部がコンプレックスだったということが書いてありました。

そうじゃなくなってきた、なんて思った時も山ほどあったけど、最近また、やっぱり人生全部がコンプレックスだなぁなんて感じるわけです。

自分の過去やこれまで歩んできた道には、悔いもないですし、恥ずかしくはないんですが、

こうやってのうのうと生きている自分自身がコンプレックス。

 

特に、

アイデンティティと個性がない自分

万年、代役体質な自分

圧倒的に人間的魅力がない自分

がいつになってもコンプレックス。

 

それはきっと、幼稚園に通っていた頃から。

 

コミュニティの中に、いろんな役柄が用意されている中で、そのどこの役にも入れない。

平民Dすら役が埋まってしまっている。

なら、役柄に似合う人間を演じてアピールするしかない、新しい役柄を作り演じるしかない。

 

そう悟っていたのでしょう。

 

これが仮面人間の誕生であり、すーちゃんの始まりでした。

 

それが嫌になって逃げ出したりもしたわけですが、そのコンプレックスが消えていくわけはなかったのです。

 

ずっと、その無個性コンプレックスは付きまとっています。

 

自分には何も無いから、少なくとも何でも出来ないと、何でも一番に頑張らないと。

それが私にとって、たった一つの縋りつける役柄だったから。

 

きっと今、そんな感じ。

 

嫌気がさして、色んなことに烏滸がましく感じて、時間だけが過ぎていく感じ。

 

単純に、私が私として、私を持って生きていく自信が持てないんです。

 

無個性で、周りに埋もれてしまう、代役体質の私に自信が持てないんです。

 

きっと誰もそう思ってるだなんて、思ってないだろうけど。

こんな多分、一番醜い感情を吐き出したら、周りに良くないだろうけど。

 

それでも、

今日ここで書いたのは、それをちゃんと受け入れる努力をしようと思ったからです。

 

コンプレックスを受け入れる

きっと誰でもそうだけど、コンプレックスからは目を背けたくなります。

コンプレックスを無くしたいと努力します。

例えば、腫れぼったい一重がコンプレックスなら、暗いアイシャドーを乗せたり、アイプチで二重にしたり。

 

でも、もう1つ、コンプレックスを何とかする方法はあって、それが受け入れることです。

 

私の場合、無個性であることがコンプレックスなので無くすという概念が存在しません。

だから、受け入れるしかないんですね。

 

無個性であっても、大丈夫。何も無くても、大丈夫。

いや、今の私には、無個性コンプレックスを擁護する言葉は出てこないんですけど。

 

 あれ、

昔の私はどのようにして、無個性コンプレックスを何とかしていたんだろう。

 

甚だ不思議なんですけど、またじっくり考えて、どのように受け入れるかの策を練りたいと思います。

 

人生全部がコンプレックスだと豪語してしまうほど、色んなものがコンプレックスだらけの人間ですが、

 

コンプレックスをチャームポイントに、だなんて好きなYouTuberも言ってることですし、それすら愛せるようになればいいなと思います。

 

いつになるんだろう?

きっと、一生抱える課題でしょうね。

 

そんなところで、駅に着いたのでこれで終わりにしたいと思います。

 

 

いつも、読んでくださってありがとうございます。

どんな出逢い方であれ、暖かいご縁に感謝。