ちーちゃんのブログ。

ポンコツ系エニートが言葉を綴る何でも日記。

幸せだと言える生き方は全て美しい。

こんにちは、卒業式が終わりました。

N高生として卒業について、卒業式について書きません。それらは、きっとただの節目に過ぎず、何も変わることはないから。

 

今日は、生き方について。

 

「逃げ」はれっきとした選択肢。

学校を辞める、仕事を辞める、休学する、長期休暇をとる、引きこもる、ニートになる、

こういった選択をすると、周りはこう言います。

 

「逃げたら最後だよ。」

「この先にはもう道はないよ。」

「逃げたところで何も変わらないよ。」

 

私が思うに周りで生きている人は、どうやら、逃げるという行為が嫌いみたいです。「逃げるな、戦え」という思考の方が多いイメージがあります。

 

多分、逃げたことがないからです。逃げた先を知らないからです。

 

私が学校に行かなくなった時、周りは必死に学校に戻すように、中学に行くように、全日制の高校に行けるように、と色んな事をしてくれました。

でも、その裏腹に、私の心は荒みに荒んでボロボロになりました。

 

頑張っても、努力して結果がついても、誰にも認められないし、やりたくない事を強いられて、誰のために何のために生きているのかも分からなくなりました。

 

見えない苦しみを与える何かに、立ち向かえば、立ち向かうほどに、心に傷がついて、芯が折れ、皮だけで繋がって何とか生きている気分でした。

 

でも、その環境から別れて、逃げてみたことで光が見えました。

その光に手を伸ばしたことで、逃げた先の道を見つけ、必死こいて切り開いた先が今です。

 

色んなことを、色んな人に言われたけど、

逃げた先に道はあったし、全然まだまだこれからだし、私の中で変わったことだっていっぱいあります。

 

だから私は逃げた選択を後悔していないです。

そして、自分の選択を信じて進めば道は切り開けるって信じるようになりました。(きれいごと気持ち悪いね笑)

 

この話で何を伝えたいかというと、「逃げるな、戦え」はただの1つの価値観に過ぎず、言った人の美徳でしかないってことです。

 

だから、チートのように扱われがちな逃げという選択肢はれっきとした1つの選択肢なんです。

 

どんな形でも幸せなら美しい

 

逃げという選択肢にしても、何にしても、生きようと思ったら、非難されることも、苦しいアドバイスをもらうことも、批判されることもあります。人生ですから。

 

でも、その人たちの意見を全部反映させる必要はないんです。

悩んだ時に経験者からの耳を傾けて、困った時にたくさんの意見を参考にすれば良いのです。

 

その人生を生きるのは、貴方しか居ないし、決定権を持つのも貴方だけです。

 

そして、誰かから褒められるような、羨ましがられるような生き方を、無理にしなくてもいいんです。

 

社会の声は時代と共に変わります。周りの人がすごいと言う生き方も変わっていきます。

だから、貴方が幸せだと胸を張れる生き方がある方向へ、それがどんな道でも歩んでいけばいいのです。

 

幸せだと感じられる生き方がそこにあれば、その生き方はどんな形であっても、美しいことに変わりはありません。

 

貴方の心と生命が健やかに過ごせているのであれば、きっとそれはステキな人生です。

 

私自身も、これから先、色んなことが待ち受けていたとしても、私の思う幸せを大事に、私らしい生き方を作っていきたいです。

私の中で、私が思う美しい生き方を研究したいです。

 

幸せで美しい生き方を求めて、挑戦する、挑戦しようとするステキな人に、これから先も幸せで美しい生き方であることを祈ります。

 

それでは〜♡

 

 

 

 

自己防衛

春から新しい生活が始まるとのことで、お部屋の大掃除と大断捨離会を行っているちはるです。

色んなものを捨てたくなる時期ってありますよね、思い出したくない時代の物とか特に。

 

今回に関しては、前向きな大掃除ですけど!笑

 

今日は自己防衛のお話をば。

 

自分を守るために何をする?

最近、謝りすぎてしまう人の心理状況について勉強しているのですが、色んな状況がある中で興味深いことを知りました。

謝りすぎてしまう人は、罪業妄想(自分自身を罪深い人と思い込むこと)を抱いていたり、自罰感情が人一倍強かったりとありますが、

プライドが高いが故に、誰かから怒られたり呆れられたりする前に謝って、自分自身が負う傷を少なくし、守ろうとする心理が働くこともあるそうです。人との衝突を避けるため、自分自身のテリトリーに踏み込まれないためという理由もあります。

 

どんな人間でも、薄かろうが厚かろうが自分のテリトリーを守る心の壁は存在してると思います。

だから自己防衛をするのは、意外と当たり前なんですね。

 

謝罪をしたり、距離をとったり、嘘をついたり。

 

まぁただ、それらは圧倒的に自己満足でしかなく、傍から見たらそれもまた複雑な気持ちにさせることもあるのかなぁと思うわけです。

 

嘘をつくことははなから信頼していない証拠ですし、距離を取ることは関わりたくないと遮断すること、謝ることにおいてはお互いに萎縮しがちです。

(昔は全部やってました♡)

 

自己防衛というものは、今どき大事です。

引きこもりになっても、そこにネット環境がある限り誰とでも繋がり、コミュニケーションが取れる時代です。

しかし、リアルな世界での世界観と似ていて、ガードを張らなかったら、苦しい関わりと出くわす可能性も高く、苦しい気持ちになる時もあります。

誰もが心に多少なりとも傷を持っていて、どこに地雷があるか、いつ傷がまた開くかわからないので。

 

ちょうどいい心の壁を築く

自己防衛は大事ですが、やりすぎは何事も良くないし、これもそうだと思います。

 

私も100%ダメージカットの壁を築き上げた経験(?)がありますが、そこで何を得たかというと孤独自分自身への不信感でした。

 

そりゃ、分厚い心の壁作って、嘘ついて、謝り通して、人と関わらなきゃそうなりますよね。普通。

周りに人がいない環境にいると、もちろん孤独は生まれます。

それに、自分の中の物差しでしかいろんなモノを解釈できなくなるので、頭が硬くなり、自分自身すら不信になります。

 

それは生きてく上で、とっても深刻な事態。

 

だから、思った。

ちょうど良い心の壁、自分自身の傷を守れるように、心を抉らせないようにするギリギリの壁を作れたら最高ですよね。

 

そこで、私は自己開示ではないのかなぁと思いました!

もちろん話してみなきゃ、どういう反応されるか、話すことでどんな影響があるのか、わからないので恐怖心はありますが。

 

もし仮に、話して嫌な気持ちになったり、傷ついたら、その人にはもう一枚ガードを張ればいいし、ついた傷はあなた自身が挑戦した勲章です。

 

でも、分かち合えたら、理解してもらえたら、少しずつ壁をとっぱらってコミュニケーションを取ることが気軽になるんじゃないかなぁと思ってます。

 

自己防衛によって壁をつくり、自己開示によって壁を壊す、この繰り返しによってちょうど良い心の壁を築き上げることができるのだと思います。

 

弱冠18歳の私には、まだまだちょうど良い心の壁は出来ていませんが、まだまだ分厚く重い壁を背負っていますが、自己開示と自己防衛を繰り返し、ちょうど良い心の壁を築き上げていきたいなぁと思います!

 

何事も実験、何事も挑戦ですので、コミュニケーションの方も頑張りたいです!新生活始まるので笑

 

 

 

 

 

 

コンプレックス

こんにちは、今日は学校のお友達が開催しているイベントに参加するために電車に乗ってます。

 

根っからの引きこもり体質らしく、誰かと会う、何かミーティングするっていう重要な用事以外、なかなか外に出ようとならないので、今回は結構珍しいような気がします。

 

珍しい日をさらに珍しくしようと、髪の毛を巻き、ヘアアレンジをしました。私の髪の毛があまり好きではなく、こだわりがなかったのでかなりレア。

ちょっと前に出てる頬骨が嫌で今まではシェーディングを入れてたけど、やめてみました。

今までは、似合わないからと可愛いピンクのリップも躊躇してましたが、今日は付けてます。

とても珍しいし、外見も内面もコンプレックスだらけだなぁと改めて感じる今日です。

 

ところで、今回はコンプレックスの話がしたく、電車の中でスマホから書いてます。

 

人生全部がコンプレックス

昔のブログを遡ると、人生全部がコンプレックスだったということが書いてありました。

そうじゃなくなってきた、なんて思った時も山ほどあったけど、最近また、やっぱり人生全部がコンプレックスだなぁなんて感じるわけです。

自分の過去やこれまで歩んできた道には、悔いもないですし、恥ずかしくはないんですが、

こうやってのうのうと生きている自分自身がコンプレックス。

 

特に、

アイデンティティと個性がない自分

万年、代役体質な自分

圧倒的に人間的魅力がない自分

がいつになってもコンプレックス。

 

それはきっと、幼稚園に通っていた頃から。

 

コミュニティの中に、いろんな役柄が用意されている中で、そのどこの役にも入れない。

平民Dすら役が埋まってしまっている。

なら、役柄に似合う人間を演じてアピールするしかない、新しい役柄を作り演じるしかない。

 

そう悟っていたのでしょう。

 

これが仮面人間の誕生であり、すーちゃんの始まりでした。

 

それが嫌になって逃げ出したりもしたわけですが、そのコンプレックスが消えていくわけはなかったのです。

 

ずっと、その無個性コンプレックスは付きまとっています。

 

自分には何も無いから、少なくとも何でも出来ないと、何でも一番に頑張らないと。

それが私にとって、たった一つの縋りつける役柄だったから。

 

きっと今、そんな感じ。

 

嫌気がさして、色んなことに烏滸がましく感じて、時間だけが過ぎていく感じ。

 

単純に、私が私として、私を持って生きていく自信が持てないんです。

 

無個性で、周りに埋もれてしまう、代役体質の私に自信が持てないんです。

 

きっと誰もそう思ってるだなんて、思ってないだろうけど。

こんな多分、一番醜い感情を吐き出したら、周りに良くないだろうけど。

 

それでも、

今日ここで書いたのは、それをちゃんと受け入れる努力をしようと思ったからです。

 

コンプレックスを受け入れる

きっと誰でもそうだけど、コンプレックスからは目を背けたくなります。

コンプレックスを無くしたいと努力します。

例えば、腫れぼったい一重がコンプレックスなら、暗いアイシャドーを乗せたり、アイプチで二重にしたり。

 

でも、もう1つ、コンプレックスを何とかする方法はあって、それが受け入れることです。

 

私の場合、無個性であることがコンプレックスなので無くすという概念が存在しません。

だから、受け入れるしかないんですね。

 

無個性であっても、大丈夫。何も無くても、大丈夫。

いや、今の私には、無個性コンプレックスを擁護する言葉は出てこないんですけど。

 

 あれ、

昔の私はどのようにして、無個性コンプレックスを何とかしていたんだろう。

 

甚だ不思議なんですけど、またじっくり考えて、どのように受け入れるかの策を練りたいと思います。

 

人生全部がコンプレックスだと豪語してしまうほど、色んなものがコンプレックスだらけの人間ですが、

 

コンプレックスをチャームポイントに、だなんて好きなYouTuberも言ってることですし、それすら愛せるようになればいいなと思います。

 

いつになるんだろう?

きっと、一生抱える課題でしょうね。

 

そんなところで、駅に着いたのでこれで終わりにしたいと思います。

 

 

いつも、読んでくださってありがとうございます。

どんな出逢い方であれ、暖かいご縁に感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肩書き「ただの人間」

こんにちは!

先日、まぶぃーず2周年イベントのトークセッションでお話してくれる子たちと打ち合わせをしました。

再出発というキーワードをどのように受け止めて考え、伝えていくか、というお話をしたのですが、打ち合わせの時点でハチャメチャに素晴らしかったです……!

真面目に聞きに来てほしいなぁと思いました!

 

世間話はさて置き、今日はどんな話をするかというと肩書きのようなものを持つと、そのままの自分を見てくれないよねーって話。世の常だろうけど。

 

「私」=「私」でしかないじゃん

 

ところで皆さん、私を何だとして認識しているでしょうか。

N高の子、ブログの子、まぶぃーずの子、不登校だった子、ヒキニートの子、おかしい子、マイプロの子、青春基地の子、ちーちゃん……。

色んな認識があるでしょう。色んな場所で関わってくださる方が多いですので。

 

でも最近、個人的にすごくその「○○な人」っていうレッテルというか肩書きのようなものに悩まされてたりします。

 

例えば自己紹介をする際に所属を言わないといけない時、「N高のちはるです。」と自己紹介しますよね。

そうするとN高というビッグワードによって、伝えたいと思ってるワードが全く伝わってくれてなかったり、

私として向き合ってくれる方がほとんど居なくなってしまうなぁと最近感じているわけです。

 

また、そのN高に転入した経緯を聞かれれば不登校の話をせざるを得ないので、ちょっと濁らせながらも話します。

ワードが出なくても、相手側がそう受け取ってしまった時点で、不登校の子というフィルターを貼られてしまいます。

すごく不登校というワード自体もイメージが先走りしすぎる印象で、勝手に可哀想だと決めつけられて「それはつらかったですね」「大変でしたね」と言われたり、距離置かれたりすることが多いです。

 

自分自身を知ってもらう上で、所属や肩書きのようなものをつけることはイメージに残りやすくするという点で大事なことなのかもしれませんが、私はあまり好きではないんです。

 

私として生きていたい身とすれば、私として向き合ってくれる方が居ないのはすごく悲しいのです。

 

ただの人間になりたかったり……

 

多分、大学生になったり、大人になれば、自ずと肩書きで自己紹介する時がいずれ来ると思うのですが、

日常生活とか今生きているうちはただの人間として、アグレッシブかつユルユルと過ごしていたいと言うのが本音です。

 

不登校について関わるのがもう嫌ってわけではないけど、元不登校として不登校について関わる現場に立つのは「もういいかなぁ」と思ってます。

それなら、元不登校ってだけでは出来ないスキルを身につけて「ただの人間、私」として、誰かの力になりたいです。

 

このブログだって、未来のN高生や後輩たちの力や不登校だったり引きこもりだったりと似たような境遇で苦しんでいる人の力になってくれたら、それは本当に嬉しいことです。

でも、N高の人だからでも、不登校の子、引きこもりの子だから誰かの役に立つんじゃなくて、そういう経験がある「ただの人間、私」として力になりたいです。

 

やっぱり、肩書きやレッテルのフィルターを貼られてる状態で見られていると、私はそういう人間である事が求められてるのかと思うようになったり、やりたい事でも出来る幅が狭くなってしまう気がしています。

 

これからも人生を歩み続けていく中で、色んな出来事があるだろうし、いろんな肩書きもレッテルも背負ったり、経験を積んでいくことでしょう。

でも、いろんな経験がある、ただの人間として、自身の心が心地良いと感じる方向性でやりたい事をしたり、誰かの力になったりと、緩く生きていけたらとても幸せだなぁと感じます。

 

今も私のことを○○な人と思って、接してくれている方も多いと思うし、それも幸せなことですけどね!

 

これから、ただの人間として生きてくために色んなことを学んで、習得し活かしたいなぁと思いまーす!

 

それでは!!

 

心の選択を信じて生きる。

こんにちは、!

最近、私のこれまでについて、考えてたりブログに書いてみたりしてるのですが、こんな感情なんなんでしょうね笑

卒業式やら、入学式やらと人生の節目にビビっているのか、感傷にでも浸ってるのでしょうか。

 

月日というものは、あっという間に過ぎていくものですね。大切な思い出が多ければ多いほどあっという間。

 

昨日、学校で最後のテストがありました。

受験の前ギリギリまで仲の良かった友達、特進クラスにいた時の友達、写真同好会を設立した時の友達、色んな友達に出会いました。

別れる時は手を振って、「次は卒業式だね!」なんて言って。感慨深いものです。

 

そんな昨日の出来事も、私の昔の感傷浸りに拍車をかけているようですね。

 

今日は、「選択したことを後悔しないように生きよう」ってお話。

 

 

もう、生き方に自信を無くしたくない。

不登校になった。引きこもりになった。髪の毛がなくなった。皮膚が見せられないくらい酷くなった。odもした。頭の中で死がこびりついた。

でも、そこから抜け出したかったし、これ以上、私を殺して生きていたくないとずっと思ってた。

 

私を保ちながら、生きていく。

私らしい生き方を探っていく。

 

そう考えながら、いろんな経験をして、私の生き方について模索していたんじゃないかなと思います。

 

私が心地良いと思える心の形を探し、その形にハマる心の居場所を作り、心地良いと思える光がある道へ進んでいく。

 

それが今までだったのだと思います。

 

私の心にハマる居場所、道を見つけ、進むのにも、色んな壁があったし、辛いことも苦しいこともありました。

 

まぶぃーずを続けようとすれば、たくさんの人にバカにされたり、変な目で見られたりしました。両親とも数ヶ月、口を聞かない日も実はありました。

 

ライターという道に進むにも高校生や元不登校という所で壁を張られて、何十社以上も面接や会社訪問で渡り歩いて落とされ続けてました。

 

私自身のトラウマをどうやって乗り越えるのか、心に抱えている問題をどう解決するのか、そんな事を考えて心理の勉強をする時もありましたし、コーチングの勉強もその一環でした。

 

今も正直、抱えきれないほどたくさんの問題はあるし、乗り越えられていない部分も解決出来ていない部分もあります。

 

それでも、1つずつ解いていって前に進めたらいいと思って、人よりも遅いペースだけど歩こうと思ってます。

 

過去の出来事は捨てようとしても忘れようとしても、残ってしまうからこそ、認めてあげたいし愛してあげたい。

それが私の生き方に自信を持つ大きなステップだと信じてます。

 

どんな選択でも胸を張って生きよう。

この社会には、「これが一般的に幸せだ」と言われるスタンダードな生き方が存在してると思います。

そして皮肉なことに、どんな大人もそのレールに乗っかるように子ども達を導こうとするし、そのレールから外れれば、「可哀想だ」「社会から外れた奴」だという目で見ます。

 

でも、レールから外れることはよくある事、だから可哀想じゃないと思います。

 

むしろ、当たり前。

 

一般的に幸せだと言われる生き方(中退や退学をせず学生生活を送り、そのまま就職し継続的に収入を得る生き方)を送る人をストレーターと言うとすれば、今どきストレーター人生のレールに乗っていられる人は半分しかいないそうです。

 

そういうストレーター人生を生きている人は素晴らしいかもしれませんが、もう多数派ではないわけです。

 

なら、レールから外れても可哀想だなんて思わずに、自分自身が落ち着く幸せの形を求めて生きた方が良くない??

 

と思ったわけです。

 

だから、周りから「おかしい」「可哀想」だと言われても、私が私の心が心地良いと思える生き方だったらそれで良いんです。

 

周りから悲しいこと、辛辣なことを言われるより、自身が選択したことに後悔しながら生きていく方がよっぽど生きててつらいです。

 

どんな選択をしたとしても、後に引けません。だからこそ、選択したことに自信を持って生きてくしかないし、自身の心が選んだ選択肢を信じてあげることこそが良い生き方だと思います。

私はその方が誇りに思える生き方なんじゃないかと考えているところです。

 

選択した先の未来を、幸せにするのは自分次第ですから!

 

まずは高校の卒業という節目を大事に、そこから前を向いていきたいと思います。

 

それでは〜!

 

(書くのに3日くらいかかって時系列とかあやふや笑)

 

 

劣等生になりたかったんだ。

今日はぼーっと語るように書いていきますね。

 

今回は、「競うのが好きじゃなかったので、劣等生になりたかった」って話。要は昔話。

 

競う世界から逃げたくて。

昨日、私も去年参加したマイプロジェクトアワードの東京大会があったことを知りました。

そのためか、去年のことを思い出して不思議な感覚に陥ってました。

 

全国大会に行く気でメラメラと闘志を燃やしている周りの子たちに着いていけない私が、そこに立ってるのが見えました。

 

正直なところ、全国大会に行けたのは嬉しかったのですが、特別嬉しい訳ではなく、単純に今まで頑張ってきたことを認めてもらえたことが形となったので安心したという表現の方が正しかった印象があります。

もし仮に全国大会に行けなかったとしても、ケロッとしていたかもしれません。

 

同じように、これまでの英語のスピーチ大会やコンクール、部活の大会、高校受験に大学受験。

周りの人が緊張する中で、私はそんなドキドキを味わえなかった。

優勝できなくても、賞取れなくても、不合格でも、その場に立った経験だけで満足、そんな気持ちでいました。

 

正直、勝ち負けで競う環境に居ることがとても違和感でしかなかったし、あまり好きではなかったんです。

 

勝ち負けや優劣を付けられることが苦しかったし、いろんな物事に対して順位を付けられることが辛かった。

 

テストの順位や、模試の順位が、上位であればあるほど苦しく感じ、下位であればあるほど安堵した。そんな経験があります。

 

コンクールで選ばれたり、県大会に出場したこともありましたが、実はすごく苦しかった。

 

テストの結果が良ければ周りに変な目で見られて嫌われるし、コンクールや良い結果を出しても、そういうイメージが悪い意味で着いてしまう。きっと学校に行ってなかったのが理由ですけど。

 

それに順位や優劣を付けられることで、「この前のテストで何位だった人」「この前県大に行った人」というイメージしか頭に付かなくなって、真正面から私として向き合ってくれる人が居なくなるんじゃないかと思ったりしたこともありました。

 

多分この考えは、肩書きを持つことが好きじゃないというのと同じものです。

 

だから私は、私として向き合ってもらえるように、影の薄い劣等生にとてもなりたかったんです。

 

劣等生になりたかった

この前、中学時代の先輩の話を書いた時に、優等生に憧れた劣等生というタイトルを付けたのですが、その優等生の先輩に憧れたのは事実です。だってどんなレッテルを貼られてようと凛としていた強い人だったから。

 

でもそうなれないと悟った時に、劣等生であることの気楽さに気付いてしまったんです。

 

どうせ競われる社会から逃れられないなら、いっそ底辺に落ちてしまった方が楽じゃないか。

 

距離を置かれて嫌われるより、バカだって真正面から笑われた方が楽なんじゃないか。

 

何でもできる、何もしてあげなくても大丈夫、一人でも大丈夫だと、放っておかれるよりも、

助けてあげないと、教えてあげないとって思われる愛される劣等生の方がいいじゃん。

 

何でもできて、良い子って思われるより、何も出来ないの、バカだねぇ笑って言われる方がよっぽど幸せかもしれない。

 

劣等生って羨ましいなぁ。

 

 

劣等生という烙印は、私にとっては憧れでした。

今でも、劣等生になりたいと思ってます。

 

でも、もう必要ないかもしれません。競われる社会から離れることが出来そうなので。 

 

競われる社会から離れることができたら、勝ち負けも優劣も関係なくなるし、縛られなくなる、そう思ってます。

 

あぁ。

 

いつか、優等生とか劣等生とか、何位の人とか、そんなレッテルを付けられない世界になるといいなぁ。 

 

結果が全てな世の中が無くなってくれたらいいなぁ。

 

一人ひとりが、一人ひとりとして、個性を感じながら愛されるようになればいいなぁ。

 

 

 

そんな事を思った日曜日でした。

 

 

物思いを辞めたら、世界がグレーに見えた。

こんにちは!

この一か月の間、色々あって色々ありました。(このブログで察してくださいw http://suzie126.hatenablog.com/entry/2019/02/11/025041

いつも感情やメンタルの波は激しい方だと自負しているんですけど、今回はいつも以上にやばめ。

何度か久しぶりに地元のお友達と遊びに出かけたりしたけど、正直しんどかった。w

 

まぁ、そんなこんなありまして、今月はしんどい時期でした。言葉を紡げない、物思いに耽れない、私じゃないみたいでした。

 

(今回のブログはいつもそうだけど、可哀そうだと感じてほしくて書いているわけじゃないです。悪しからず。)

 

言葉を紡ぐことは、心と向き合うこと。

大前提としてブログにしても日記にしても、言葉を紡ぐのは私の感情や感じていることを私の中で嚙み砕き、理解するためです。

要は、言葉を紡ぐ時間は心の声に耳を傾け、向き合う時間と言う事です。

頭の中の考えを巡って、色んな感情を知って、物思いに耽るのがいつものルーティーンのようなものでした。

 

今まではそれが大好きだったし、逆にそうしないと私自身が人間らしく過ごせない気がしていました。

言葉を紡ぐことで、私自身の目指す生き方ができるようになり、心の安定が保てていたんです。

 

でも二月に入って、カクシカ色々ありまして、言葉を紡ぎたくないと思うようになりました。

私の心の声を聴きたくなかった、どんな感情を抱いているのか知るのが怖かったんです。きっと、今心と向き合えば、私が壊れそうになるんじゃないかって思ったのかもしれません。

 

何も考えたくないし、何も感じ取りたくない。

ただ、そこらへんに転がってる石ころみたいに、感情を忘れて、他人の内情とか小難しいことも全部どこかに投げ捨てて、ぼーっとしていたかった。

 

そうやって思っていたら、自分の部屋に引きこもってました。正直なところ、体調が悪かったのも理由にありますけど。

この時期、急に激しい腹痛を起こして、失神しかけたり、何を食べても味を感じなかったり、食後に気持ち悪くなったり、それなのにお腹に食料をあるだけ詰めたりしてて、かなり異常なことをしてたなぁなんて思います。原因はわかってないけど。

 

本当に堕落した生活を送っていました。まぶぃーずだって今が力の入れ時なのにサボってたし。

 

全部辞めてみたら、世界がグレーに見えた。

考えることも、言葉を紡ぐことも、色んなことも全部全部ストップして辞めてみたら、私が人間として生きている感触がなくなって、世界がグレーに見えました。

こんな生産性のない自堕落な生活をして、どんどん私の価値はなくなっていってるのかもなぁ、こんな生活明日もしてたら、私なんて必要なくなるなぁ、なんて自暴自棄になってました。

 

だから、何故かg.o.a.tってところでブログを作って、無理くりにでも言葉を紡いでいました。私には言葉しか取柄がないと思ったから。

言葉も紡げない、何も出来ない私は、屍と一緒だと思ったから。

c-shv2.goat.me

でも、このブログみたいに文章を連ねることはできなくて、本当に私ってクソだなって思ってすぐに辞めてしまいました。それでまた、自暴自棄。笑

この時は、あまりにも何も考えてないし、感じ取ってもないから、心が空っぽで、そのモノ寂しさや、悲しいほどに使えない表現力と語彙力と脳みそに怒りを覚えて、一人で号泣してました。

 

昔よりも自己肯定感を高められてきた、自信を身につけられてきたと思ってはいたけど、それはただの幻想だったみたいです。

こんな時に、私を守ってくれない自己肯定感とか自信なんてって思いましたし、本当の意味での自己肯定感も自信も持ち合わせていなかったんだなぁと感じました。

 

特に一番に恐れていた心が空っぽな味気ない人工物みたいな人間に近づいていて、すごく怖くなりましたね。

人間らしい色鮮やかな感情を持った生き方をしようと、すーちゃんを辞めた時に決めていたから尚更。

 

グレーの世界で、人工物みたいな私になっていくのを、何もしないで見つめているのが一番怖かったかもしれない。今でもそんな感覚に陥ることが多くて、めちゃくちゃ怖いです。

 

この文章すら、何も心を動かさず、書いている現状も怖いです。

 

今の目標は、グレーに見えるフィルターを外して色鮮やかな世界を見ることです。

まぶぃーずイベントまでにはそうなっておきたいです。新しく出会う人とかお世話になった人と、瑞々しい感情を持ってお話がしたい。トークセッションにも参加するし。

 

あぁ、頑張ろ。生きるのも、前を向くのも。

 

皆さんも一緒に頑張ってくれたら嬉しいです。